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尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍11」


朝日アジアレビュー
the asahi asia review 13:1973 spring
13春季号
 通巻一三号・一九七三年第一号

88頁〜92頁

尖閣列島問題と井上清論文

奥原 敏雄         

1 はじめに

 一昨年(一九七一)12月30日に中華人民共和国外交部が公式声明を発し、尖閣列島の中国帰属を主張するにい
たって以来、わが国においてもこれを支持する動き(たとえば、日中友好協会正統本部、日本国際貿易促進協会、
井上清氏、羽仁五郎氏ら九五人の知識人によって結成されたとされる「日帝の尖閣列島略奪阻止の会(仮称)」が
いくらかみられるようであるが、その代表的学者として、京都大学教授の井上清氏(日本史)をあげることができよう。

 尖閣列島の中国帰属を主張した最初の井上論文は「歴史学研究」72年2月号掲載された「釣魚列島(尖閣列島
等)の歴史と帰属問題」と題するものであるが、同氏はその後「中国研究月報」72年6月号その他に若干加筆した論
文を発表されるとともに、昨秋には『「尖閣列島」−釣り魚諸島の史的解明』と題する著書を、現代評論社から出して
いる(72年10月9日)。

 井上論文は、尖閣列島の中国帰属を扱ったものとしては、内外を問わず最も詳細なものの一つといってよいであろ
う。

 井上氏のほかに台湾国立政治大学の丘宏達客員教授が二・三の論文を発表しておられるが、これは国際法の立
場からまとめられたものであり、歴史的観点からのものとしては、井上論文がまず代表的なものと言えよう(なお、
『日中文化交流』72年2月号発表された井上論文は、72年3月4日付きの『人民日報』にその全文が転載されてい
る)。

 井上論文は、全体としてイデオロギー的色彩の強いのになっているが、そのことは別として、同論文は筆者の諸論
文(季刊「沖縄」題56号・71年6月号など)に言及するとともに、これを批判している。

 そこで本稿では、この批判に対する反論をも含めて、筆者なりの考えを、紙数の許すかぎり、述べてみたいと思う。


2  先占の法理無効論について

 筆者に対する井上清氏の批判の論点は、陳侃・郭汝霖などの冊封諸使録、林子平の『三国通覧図説』等に対する
解釈、及び論文全体における筆者の国際法の関係からの主張に向けられているようでもある。

 まず後者の問題についてであるが,井上氏は、尖閣列島問題領有権問題を考えるにあたって必要な国際法の無
主地の観念と先占の法理自体を、欧米植民地主義、帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるとして、これらの効
力の一切および権威を否定する。

 この点は井上論文の非常な特色をなすものである(台湾、香港などで尖閣列島を扱った論文の多くも、井上氏ほど
に明白に先占の法理無効論を主張しているわけではない。中国も公式には、先占の法理無効を主張するにいたって
いない。国府の場合、明らかに先占の法理を有効とみなし、ただ日本が尖閣列島について、この要点を満たしていな
いという点に批判の中心があるように思われる)。したがって井上論文は、純粋に歴史的事実のみを論じているとい
うよりは、氏の主張する史的事実に対して、法の効力を与えんとする立場から書かれているようにみえる。そのような
法が一般的に効力を認められるか否かは別問題として、その意味において井上論文はむしろ法的論文であるといえ
よう。

 上述したごとく、井上氏は先占の法理を植民地主義、帝国主義の利益にのみ奉仕するという理由でその効力を認
めていない。それとともに井上氏は先占の法理の成立した歴史的動機が植民地支配にあったことも、無効論の一つ
としている。

 然し国際法の観点からこの問題を考える場合、井上氏のような単純な主張は、とうてい認められないといえよう。た
しかに井上氏が指摘されるように、無主地の概念や先占の法理は、ヨーロッパ諸国によって植民地を領土支配する
法的技術として成立し、かつ用いられてきたことは事実である。

 しかし無主地の概念や先占の法理は、ヨーロッパ諸国の植民地地域にのみ適用されてきたわけではない。又先占
の法理によって今日特定の国家の領域とされているすべての地域が、植民地と呼ばれているわけでもない。たとえ
ば小笠原諸島とか南千島、またかつて蝦夷とよばれた北海道などは、現在日本の固有領土として、一般に認められ
ており、これらの地域を日本が自国の領土としている事実をもって、植民地支配を行っていると主張する者はいない
であろう。しかしこれらの地域も、それが日本の領土であることを国際法上に説明すれば、先占の法理によって領有
権を取得した地域なのである。同様に内蒙古、チベット、旧満州の一部、台湾などが中国領として認められているの
も、国際法上から見るならば、先占の法理による。シベリアやカムチャツカ半島などがソ連領とされるのも同じくこの法
理による。更にオーストラリア、二ュジランド、アメリカ合衆国、カナダなどの国々において、自国領域としている陸地
および島嶼の大部分は、これらの国々が独立する以前において旧本国が先占によって領域として取得していた地域
である。もし先占の法理が無効というのであれば、これらの国々の存在が法的に問題とされなければならないことと
なる。

 植民地主義とか植民地支配が今日非難されるのは、国家として独立しうるだけの住民数と民族自決の意思が存
在するにもかかわらず、第三国がその地域住民の意思を無視して、立法、司法、行政上の支配をおこない、しかも支
配国の利潤追求の手段としてのみ地域住民を扱ってきたことの多かったことによる。
 このようにみてくると、広大な陸地にごく少数の原住民しか居住しない陸地(アメリカにおけるインディアン、カナダに
おけるエスキモー、台湾の高砂族、北海道・千島のアイヌ人など)や尖閣列島のような無人島まで先占の法理の無
効を主張することは正しくないといえよう。

 右の説明によって理解されたごとく、先占の法理の有効性を認めることは、かならずしも植民地主義国や帝国主義
国の利益にのみ奉仕することとはならない。また、かつて植民地を有していたヨーロッパ諸国も、その大部分は、現
在これを放棄し、独立を認めているのであるから、ごく若干の例外を除いて、先占の法理に依拠する地域は、今日で
は、一般に植民地と呼ばれていない陸地および島嶼に限定されているといってよいだろう。

 なお、井上氏の主張を法的観点から分析すれば、発見、命名、領有意思の存在だけで、領有権の帰属が決定され
るとする主張に等しい。だが、このような主張の歴史的淵源自体は、今日では有効でなくても、初期の先占の法理に
も存したものである。この点は井上氏自身も指摘されている。もっとも井上氏はそうであるからといって、何も先占の
法理を認める必要はないとしている。しかし井上氏が認めようと認めまいと、いやしくも尖閣列島の領有権を主張する
以上、主張の法的根拠をこの点においていることとなる。

 ところで、近代国際法が、領有権の確定にあたって、領有権の存在だけでなく実効的支配の事実をも要求するよう
になったのは、井上氏が主張するような意味でそうなったわけではない。常識的に考えても、数世紀前の古文書を引
き合いに出して、すでに長期にわたって、しかも平穏裡に実効的支配を及ぼしてきた国に対して、これに優位する権
利を主張しうることの方が合理的でないといえよう。若しこのような主張が一般的に認められるときは、先占によって
領有権を取得されている日本の島嶼の多く(何も尖閣列島にかぎったわけではなく、小笠原諸島などもそうである)
は、発見や領有意思の存在を示す第三国の古文書の発掘のたびごとに、領有権を失う可能性を常に有していること
となる。世界中の多くの国国の陸地や島嶼も同様に、将来における新しい古文書の発見によって、絶えず領有紛争
へと発展する危険性を秘めていることとなる。

 別の観点からこの問題を考えるならば、現実的に主権行使を怠ってきたと言う事実は、それが長期にわたれば、遺
棄の意思を推定される十分な理由を有しているといえよう。またもし自国の領域であるという意識があれば、右の地
域に対し第三国が主権を行使することは、自国領域を侵害されたこととなるから、この事実に抗議をおこなうのが当
然であろう。このような抗議もおこなわず、平穏かつ継続的な主権行使(実効的支配)を長期にわたって可能ならしめ
たような場合、この地域に対する第三国の支配を事実的に認めたと等しい事となろう。

 まして尖閣列島の場合、中国も台湾も日本領であることを明示的に認めてきたのである。少なくとも70年以前頃に
おいてはそうであった。たとえば53年1月8日付『人民日報』は「琉球群島人民の米国占領に反対する闘争」と題する
重要な論説記事をかかげているが、その中で琉球群島の定義をおこない、尖閣列島を、明示的に、この中に含めて
いる(この定義では「包括尖閣諸島」という言葉を用いている)。また58年11月北京の地図出版社が作成した地図で
も「日本の部」において、尖閣列島は扱われ、魚釣島(今日呼ばれている釣魚台とか釣魚嶼ではない)、赤尾嶼の名
前を明示するとともに、尖閣群島という総称を与えている。

 同様に台湾においても、65年10月の国防研究院と地学研究所によって出版された世界地図集第一冊(東亞諸国)
において、尖閣羣島という名称で列島の存在を明記するとおともに、各島名を和音のローマナイズしたものとして示し
ている。たとえば釣魚台は日本名の魚釣島とされ、黄尾嶼、赤尾嶼もそれぞれカッコのなかで久場島、大正島の名
前を併記し、さらに黄尾嶼、赤尾嶼を中国音でなく和音で読めるようにローマナイズしている。尖閣羣島もまた正確に
SENKAKU・GUNTOとつづっている。その他、70年の中華民国国民中学校地理科教科書でも、尖閣列島(原図で
は、尖閣羣島)は、あきらかに『大琉球群島』の一部とされ、魚釣島、北小島、南小島といった和名を付している。

 さらに台湾の付属諸島の範囲についても、64年の「中華人民共和国分省地図」は最北端を彭佳嶼と明記し、同様
に65年台湾省政府によって出版された「台湾省地方自治誌要」、68年の「中華民国年鑑」も彭佳嶼の北端を台湾
省の極北と明示している(極東は綿花嶼)。

 このように70年以前の中国や台湾の公文書・文献(地図を含む)などで、尖閣列島を中国領と明示したり、台湾省
の一部に含めていた事実は、一つも見当たらない。反対に54年の如く『基隆市志』(基隆市文献委員会)は、彭佳
嶼、綿花・花瓶両嶼が、台湾に編入されたのは一九〇五(光緒31)年であった事実を明記しているものさえある(右
の文献によると、この年、轄区の再調整が日本政府によっておこなわれ、彭佳嶼外二島が台湾の範囲に含まれたと
説明されている)。


3 歴史的事実及び古文書の解釈に対する反論

 次に古文書の解釈に対する問題に入るが、その前に歴史的事実を明らかにしておく必要があるように思われる。そ
の第一は、台湾が中国の領土へ編入された時期である。一六九六(康煕35)年の『台湾府志』(高拱乾※注1)に
よれば康熙20年に始めて版図に入ったとされ、また翌21年、群邑が置かれたとされている(「台湾自康煕二十年始
入版図」 「上二十一年特命靖海将軍候施公 師率討平之 始入版図」)。康煕20年とは、一六八一年のことである
が、一七六五年『続修台湾府志』(余文儀※注1)その他清朝の公文書および明治36年、大正8年の各『台北庁
志』(台北庁編)によれば、版図編入は康煕22年とされているところから、右の『台湾府志』の記述は正確でないと言
うべきであろう(「続修台湾府志」「康煕亥(注22年)地入版図」)。なお、版図編入後の台湾府(およびその後の台
湾省)の彊界は、当時の総ての清朝公文書が大鶏籠嶼(現在の社寮島)と明記している。例えば一七一七年の『諸
羅県志』(周鐘誼※注1)は台湾北部の台湾県の「北界」を大鶏籠山と記し、一八七一年の『淡水庁志』(陳培桂
※注1)も大鶏籠山を「沿海極北之道止」と誌し、その他『台湾府図纂要』(清刊)も『淡庁極北之区』、同様に一八四
〇年の『台湾道姚瑩奏台湾十七国設防状』(上述『基隆市志』参照)も「淡水極北」と明示している。

 このようにみてくると、一六八三年以前においては、琉球久米島の手前の島々はすべて(台湾を含む)今だ中国領
でなかったことがあきらかである。さらに一六八三から一九〇四年までは、大鶏籠嶼より以北の綿花、花瓶、彭佳諸
嶼、尖閣列島は、すべて帰属不明のままにおかれていたことになる。したがって後に触れる古文書の解釈にあたっ
ても、右の歴史的事実と矛盾しないように解釈することが必要となる。

 第二に、尖閣列島とその航路についての琉球人と中国人の熟知程度であるが、これについては、陳侃『使琉球
録』(一五三四年)巻一が十分あきらかにしている。すなわち■(※注2)人の方がこの海路に熟知していないこと、そ
のために陳侃は■(※注2)人だけの航海に非常な不安を覚えていたこと、それだけに渡琉前年の11月に琉球の進
貢船が入港したことを知り、航海の詳細を聞く事ができると非常に喜んでいた事を右の使録は誌している。

 また琉球の次期国王(世子=尚清)は冊封船を操る術に■(※注2)人が十分慣れていないことを心配して、看針
通事(中国語のできる針路士)と舟を十分に扱いうる琉球人三〇人を乗せた迎接船を福州まで派遣し、冊封船の先
導と操船にあたらせたことを記し、そうして陳侃自身これを非常に喜んだことをあきらかにしている。

 右の陳侃の記述は井上氏の主張と完全に反対の事実を明らかにしている(井上氏によれば尖閣列島は、琉球人
には何の関係も無かったし、従って琉球人には列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られず、また彼らが
独自に列島に関して記述できる条件のほとんどなかったし、またその必要も殆どなかったとされている)。

 井上氏はどうも冊封船が往路復路とも琉球船の先導と琉球人の駕乗導引を得ている事実をご存じないらしく、現存
する史料に記録として残されただけでも二八一回琉球船(進貢船、謝恩船、迎接船など)が福州へ赴き帰途尖閣列
島の航路を通っていたこと、さらに琉球の勘合符船が陳侃以前に既に九八回、安南・シャムなどとの交易に従事して
いた事実(これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない)にも通じておられないように思われ
る。

 これに対して陳侃以前には一〇人の冊封使が琉球に赴いていたにすぎず、しかもこれ以外に中国から琉球への公
船が派遣されたことはなかった。かくして琉球船に対する中国船の派遣率は、実に、三二分の一にすぎない。しかも
陳侃の場合は前使黄旻との間に五五年、陳侃と郭汝霖との間はニ八年というように,非常に大きな空白があった
(その後の冊封使も同様で、張学礼・林鴻年各三十年、徐葆光・周煌各三七年、李期元四〇年、夏子陽・社三策各
ニ七年、汪楫一九年、超新ニ八年。これに対して琉球船は陳侃以前に毎年約二隻)。■(※注2)人が尖閣列島の
航路に不慣れであったり、操舟の術に不安があったのも、経験不足から、いわば当然であったといえよう。

 そうしてそれ故に往路復路とも常に琉球船(往路は、一年一貢制のときは帰国の新貢船、二年一貢制以後は迎接
船=陳侃がその最初の例、復路は謝恩船)の先導と、琉球人の冊封船への移乗および駕乗導引が必要であったの
である。井上氏の誤りは、尖閣列島を記載した流球と中国との文献の数を、単純に比較し、他方、琉球通交史に関
する史料・文献にあたらなかった結論による。

 かくして、冊封使たちは駕乗している琉球人が進路目標として尖閣列島をとったこともあって、冊封船上からこれを
望見したにすぎない。

 尖閣列島を記載した最も古い文献として陳侃使録は有名であるが、この使録において列島の島嶼を陳侃が命名し
た事実もなければ、何らかの文献を引用した形跡もない。それ故、陳侃は船上の琉球人等からその名前を聞いて使
録に残したとみるのがむしろ自然であろう。

 陳侃は、厳従簡『殊域周資録』によれば、久米島すら、それが琉球であることを、琉球人に質問してはじめて知った
とされている。陳侃が、井上氏の主張されるように、久米島より手前の島々を中国領であると意識して「乃属琉球者」
と記したものでないことは、この事実によっても分るし、上述した歴史的事業とも一致する。

 同様に郭汝霖の時代(一五六ニ年)も、台湾、彭佳、花瓶等の島嶼はいまだ中国領にされていなかったわけである
から、汝林が「赤嶼者・界琉球地方山也」と記していることをもって『琉球と中国とを界する』と解しえないことはもちろ
んである。まして「琉球と中国とを界する」という表現を直接にとらなかったのは「とくにその必要がなければ書かない
のが普通である」といった井上氏の主張は我田引水的解釈以外のなにものでもない。

 汪楫『使琉球雑録』(一六八三年)における「中外之界」についても同様であった、台湾はかれが琉球からの帰国の
途につこうとするころに、海師施琅によって平定されたにすぎず、「郊」の意味をめぐる汪楫とのやりとりのときには、
未だ中国の版図に入っていなかったのである。事実往楫使録でも問題の水域を「過郊」と記してはいたが、過界とか
『過中之界』としていないのである。そればかりでなく「過郊」のところで「溝ともいう」と説明していたのである。さらに
井上氏の指摘とは反対に、周煌は「琉球国志略」巻五で、この溝を「中外之界」ではなく「■(※注2)界の界」と明記
しているのである。

 加えて周煌は、使録の「志餘」において、「汪楫使録」の「郊」をすべて改め、「溝」と」書直している。

 当時、黒水溝が、「■(※注2)海の界」と呼ばれていたことは、周煌の次の李鼎元使録でも説明されている。かくし
て当時においえも「溝」は、単に琉球海と■(※注2)海との海上の特色を示す意味しかなかったのである。

 なお、郭舜功「日本一鑑」、郭若層「籌海図編」、林子平「三国通覧図説」についての筆者の考えは、別の論文
(「日本及び日本人」73年新春号)でも既にあきらかにしているので、紙数の関係もあり、略する。


   4  むすび

 井上氏は筆者の主張をして、居直り強盗とか帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものとして、非難している。
同様に、政府を「故意に歴史を無視している」「佐藤軍国主義政府」、日本共産党を「反中国の日共」「軍国主義と二
セ愛国主義をあおりたてることにやっきになっている」と罵倒している。井上氏はさらに朝日新聞社の「社説」、「朝日
アジアレビユー」(第10号)の巻頭言その他にも攻撃の矢を向けている。

 それらに共通するものは、井上氏と単に意見を異にしただけにすぎない。しかし井上氏には、その事がどうにも気に
入らないらしい。

 筆者は、井上氏が私と意見を異にしたり、中国の領有権を主張されるからといって、別に何とも思っていない。筆者
が井上氏の主張に関心を持ったとすれば、それは氏の論拠そのものであって、筆者を居直り強盗と呼ぶことが、中
国の領有権帰属にとって、有効な証拠とでもなるならばともかく、そうでなければ、別に何ということはない。

 しかしそれにしても、井上氏には妙なところで妙な才能があるものだと感心したことも事実である。敵対者に対して
考えつくあらゆる戦闘的文句を並べたてる必要があるような戦時には、まず余人には代えがたい貴重な人となるで
あろうことは確かである。

 だが戦争の無い日本社会で、しかも領土の帰属問題を論じる時にまで、このような敵対的文句を並べたてること
は、私などには、場ちがいに思えてならない。そればかりか、かえって井上氏の主張の弱さをご自身認識しておられ
るため、あえて言わざるをえないと考えたくなるというものである。

 ところで井上氏の『アジアレビュー』(第10号)に対する批判は、まず傑作の分類に入るといってよいであろう。井上
氏はアジアレビューの年表が、歴史を抹殺したとされている。本当かなと思ってよくみると、この年表が一八七二年
以前を扱っていないだけのことである。そうしてそのことは、あらかじめ年表の表題のところで(一八七二年〜一九七
二年三月)とことわっている。他方、年表で扱っている期間中の中国の動きや主張は、詳細に整理されており、どこ
にも抹殺した形跡はない。

 どうやら、陳侃、郭汝林などについての記述がこの年表に入っていない事に井上氏の不満があるらしいということは
わかったが、しかしそれらは資料集のところで原文を掲げているのであるから、別段に支障はない。

 年表は一八七二年以前について、中国の文献だけを無視したのではなく、もともと書いていないのであるから、琉
球の文献や事実なども見当たらないのである。中国の歴史を故意に抹殺したとは、どのように考えてもでてこない。
同誌の巻頭言に対する非難にしても同様である。

 この巻頭言は、一般的に世界各国を対象として述べたものにすぎず、しかも仮定法で書かれている。中国が現実
的にもそのような主張をしているならばともかく(井上氏はこれを強く否定されるのであるから、ますます奇妙であ
る)、そうでないならば、誰もそのような誤解はしないのである。

 相手の文章と全体の意味を正確に理解しようとつとめない批判(この点は筆者の論文に対する井上氏の批判にも
しばしば見られる。大人げないからただ反論しないだけである)は、相手を納得させないばかりでなく、そそっかしさを
証明する以外何ものでもないといえよう。

(おくはら  としお=国士館大学助教授・国際法)




※注1 セン、えらぶ。ごんべんに撰の右。 ATOKにはあるがWORDのコードにないため文字にならないようであ
る。

■(※注2) 門に虫 これもATOKにはあるがWORDのコードにないため文字にならない。


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