remove
powerd by nog twitter
尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍30」



牧野清

尖閣諸島 日本領有の正当性



       序文
                 尖閣諸島を衛る会
                             会長   石 垣 宗 正

「尖閣諸島は日本固有の領土である」と日本外務省は説明するが、中華人民共和国や台湾の国民政府は「昔は中
国の領土であった」と主張し、いかにも日本が中国から不法にも奪取したかのように講義を繰り返している。

 さらに聞く処によれば一九九二年中華人民共和国は新領海法を交付し、その中で尖閣諸島は既に中国領となって
いる由、おどろくべき隣国に対する不当、非礼な措置である。

 われわれは平和を愛好し、国際間に事を荒立てることは全く欲しない。然し中国のこの措置は明らかに将来にトラブ
ルの種子をまいたものであり、誠に遺憾なことである。

 果たして尖閣諸島は昔は中国の領土であったか?今回八重山郷土史研究家牧野清氏が、歴史的にそのような事
実は全く無かった」事を明確に解説、明治二十八年当時尖閣諸島は無主の無人島であって、日本政府の判断、領
有は正当で少しも瑕疵のないことが立証されたことは、誠に喜ばしいことである。

『中国側に大きな誤解がある』と牧野氏は説明されている。

 今回この研究論文を当会から出版することになった。江湖各位のご一読を戸ご理解を願って巳まない次第でありま
す。
    平成九年(一九九七)三月




(一)は じ め に

 一九九六年(平成8年)七月十五日、東京に本部のある日本青社が尖閣諸島北小島に灯台を建設した(年表12
2)。魚釣り島には八月十八日尖閣諸島防衛境界が2×3米の木製の大日の丸国旗を作成掲示してある(年表12
5)。いずれも尖閣諸島の日本領有をアピ-ルすることを目的としたものである。

 これに対し、八月に十六日、香港、中国。台湾からの数隻の抗議船団が尖閣の領海内に進入し、上陸を試みたが十
数隻の日本の巡視船に阻止された(年表128)。然しこの時、活動家四人が荒海の上に飛び込み、一人は死亡(ヤ
ン・ユク・チュン・ディビット 四十九歳 香港国籍)1人は重症(フオン・ユー・ユエン 三十九歳香港国籍)は救助され
て八重山病院に運ばれ、治療手当てを受けて、数日後退院、帰還した。

 更に十月七日早朝、中国、香港、マカオ、台湾からの抗議船団四十数隻、三百人以上が尖閣領海内に進入、活
動家七人が岩礁を登って魚釣島に上陸。中国国旗、台湾国旗を建てて帰船。喚声を上げて領海外に退去した(年表
133)。

日本巡視船の警告を無視した暴挙ともいうべき、激しい抗議行動であった。
灯台や国旗を建てて日本の領海を誇示した日本国民の行動に対し、九月十一日徐中国大使は、
  魚釣島とその付属の島は昔から中国の領土だ。このような行動は中国の領土主権を著しく侵し、中国国民の
  強い憤慨を招いている。尖閣諸島のいかなる施設も不法だ。尖閣問題は、しばらく棚上げすることにケ小平
  氏来日の際、合意したではないか。
と、正式に抗議した。然し日本の林事務次官は『棚上げ論を合意したことはない』と言下に否定した。(年表129)。

 五十一年前、大戦終結の当時中国は『琉球は中国に属すべき領土だ』と主張したが容れられなかった。二十七年
間のアメリカの統治時代には尖閣諸島もその管轄内に入っていて、日本への帰還(一九七二)の際は中国側の激し
い主張もあったけれども、現在も久場島(黄尾嶼)と大正嶼(赤尾嶼)はアメリカの爆撃演習地として使用されている。

 然し、中国政府は、一九九二年領有権を明記した新領海法を交付した。そのなかには尖閣諸島も包括されてい
て、既に中国領となっているらしい(年表120)。前述徐中日対しの発言もこれに基づくものであろう。台湾の領空識
別圏の東端は与那国島上空にまで達しているというから、驚くべき隣国に対する不法な圧迫行為である。

 ともかく日本の尖閣諸島領有の法的根拠と相対する中国側は果たし尖閣領有の主張し得る根拠があるのか、日
本の外務省は『中国の主張は国際法上有効な論拠とは言えない』と評している。(年表101)。
     この小論は日本の領有と中国、台湾側の言い分について改めて検討を加えてみることにしたものである。

(二) 日本政府の無人島調査と無主地先占

 日本政府は一八七一年(明治四年)の廃藩置県後、一八七七年(明治十年)頃から日本列島周辺の無所属無人
島の調査を開始した。逸早く領土問題に着目した先覚者が閣内にことを示している。

 有人島については、幕藩体制当時すでに漏れなく処理され板と考えられる。琉球列島では筆者の知る限り与那国
島の一五一〇年中山入貢、八重山所属が最後であったと思う。
 しかし、無人島に就いては概ね処理されていなかったと推測される。

琉球列島での無人島。
△ウフアガリジマ=南北大東島(二島を指す)
△ラサジマ=沖の大島
この三島は外国航海業者(ラサ島はボナフィディン氏の発見といわえる。)による命名のようで三島合わせて『ボロヂ
ノ列島』と外国航路者はよんでいたと伝えられる。調査事項は比較的単純であったため次々と無主地先占領有、沖
縄県の所属となった。

 問題は中国名のついている尖閣諸島。魚釣島は硫球名ヨコンジマ、ユクンジマ、イーグンジマなどと古くから呼ば
れており、南北小島にはシマグワー、或いは鳥島、久場島はクバ(和名ビロー)の群生からそのままクバシマ。八重
山では『イーグンクバーシマ』で列島全体を呼んでいた(年表1)。政府の調査は慎重、精密を極め、調査の過程では
沖縄県から三回も国標建立の申請があったが、調査未完として脚下したと言うことも有ったと言う。

 しかし、一八九四年(明治二十七年)遂に調査完了。これらの中国名は単に航路の標識名に過ぎない。領土として
の支配は及んでいないと確信、翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日は魚釣り島、久場島二島は閣議をもって
領有を決定、日本の領土とし、二十一日国標建立を沖縄県に指令した(年表27)。

 領有の法的根拠は、無主地先占。その定義は。
『先占 国家が国際法上の無主地を他の国家に先がけて、領有の意思をもって実行駅に支配すること』  日本政府
は翌一八九六年(明治二十九年)、予め申し出のある古賀辰四郎の開拓を目的とする貸付願に対し、三十年無償付
を許可した。開拓へのスタートである(年表31)。

 同年魚釣島、久場島、南小島、北小島四島を八重山郡の所属とした。
一九〇に年、沖縄県の土地整理に当たり、各島地籍を次の通り確定した。(年表34)。
  南小島  沖縄県八重山郡大浜間切登野城 二三九〇番地
  北小島  同  右               二三九一番地
  魚釣縞  同  右               二三九二番地
  久場島  同  右               二三九三番地

大正島は、大正十年沖縄県の上申により久場島に次いで、次の通り地籍が設定された。
  大正島  同  右               二三九四番地

 註・『地籍』は国民の『戸籍』に相当し、その土地の所属を示す。その簿冊を『土地登記簿』とよび、八重山群島は、
那覇地方法務局石垣支局で登記官がこれを管理している。

(三)古文献に見る尖閣列島

△冊封使記録        
陳   侃              使硫球録      一五三四年
敦 汝 霖             重編使琉球    一五六一年
夏 子 揚             使硫球録      一六〇六年
汪   楫              使琉球雑録    一六八三年
徐 葆 光             中山傳信六    一七一九年

△琉球側記録
羽地朝秀              中山世鑑     一六五〇年
程順則               指南広義     一七〇八年
(名護寵文)

 これらの古文献記録は、多くの研究者によって解明に努力されているが、必ずしも統一した見解とはいい難い部分
が多いようである。しかしその研究成果に学び、筆者は次のように総合的に理解することとした。

(1)硫球・福州間の航路は、琉球側から行く時は、那覇港発、久米島を左に見て微西南に船を進め、先ず赤尾嶼
(硫球名クミアカシマ)の北側を、次いで黄尾嶼(琉球名クバシマ)の北側を通過、ここで微西南に方向転換、黄麻嶼
(沖の北岩)、次に魚釣り台(硫球名ヨコンシマ)を左手に見て台湾の方向に進む。間もなく彭佳山、棉花嶼の間を通
過、ここで方向を西に転じ、花瓶嶼の北を通り船を微西北に転じて直進。五虎門、福州に達する。福州から琉球への
航路は全くその逆である。この航路のコースが基本線であったと思われる。((四) 尖閣諸島位置略図参照)

(2)右のコースで気のつくことは、尖閣諸島で航海の標識島として中国名を附されているのは赤尾嶼、黄尾嶼、黄
麻嶼、魚釣台三島一岩礁のみで、標識島となっていない南小島、北小島、飛瀬、沖の南岸の二島二岩礁には中国
名は附されていない。

(3)冊封使は中国政府の高官であり、常識的に自国の領土については十分知識をもっていたと判断される。しかし
冊封使の記録ではその面のことが全くふれられていない。ここで考えられることは、台湾の清朝所属である。

清朝に反抗して中国本土を追われた鄭成功は、一六六ニ年に台湾に渡ってオランダ人を追い、台南を本拠地と定め
た。これより鄭氏の対湾政権が続くこと二十年。康熙帝のときに至ってついに清朝に屈服。一六八三年に台南に台
湾政府が置かれ福建省に属した。
 ここに台湾ははじめて中国の一部となった。

 このように台湾の所属でさえ一六八三年で、従ってそれ以前に書かれた冊封使の記録に、渺たる絶海の無人島が
領土として記録にかかれている事はありえないはずだと理解せざるを得ない。

(4)台湾は鄭成功が台南に渡った一六六ニ年以前はどうであったか?一六ニ二年オランダ東インド会社の船隊が今
の台南を占領し、台湾確保の中心とした。一方スペイン人は一六ニ六年北部台湾を支配したが、一六四ニ年オラン
ダ人に追われて台湾を失った、という争奪騒乱の時代であった。高砂族は先住民として住んでいたはずだが統一政
権もなく、島自体が無主地の状態であったと推測される。

 『尖閣諸島は歴史的に台湾の付属島であった』という主張もあるが、それは以上の理由からあり得ない話しであ
り、また台湾が福建省に属したように、列島が何処かに地籍があったとすれば代々伝えられたはずであるが、それも
全くないのである。列島の中国所属説は後世の牽強府会であると思わざるを得ない。

 一八七一年(明治四年)沖縄県宮古のと島民五十四人が台湾蕃人に殺害された事件の時、清朝はこれを『化外の
民』として責任を回避した。日本人は蕃人討伐を実行した。

(5)前期(2)で述べてある通り尖閣諸島航路標識となっていない二島二岩礁には中国名称は附されていない。必
要がないからである。しかし若しこれが中国領土であれば、これら島や岩礁にも悉く中国名が附され、前述の通りど
ころかに地籍が設けられていたはずである。これがないのはやはり無主地の無人島で、中国の領土とはなっていな
かったこと極めて明白である。

(6)以上を要するに十六〜十九世紀後期頃の時代は有人島は否応なく領有の処理はなされず、無主地のまま放置
されていたのである。日本もそうだが、中国も同然で二十世紀を迎えたのである。勢い近代国家として先手勝の時代
となり、日本政府が先手を打って領することとなった。

 以上の歴史からみて、中国が尖閣諸島を領有、実効的支配をしたということは、まったくなかったといわなくてはな
らない。
一九七二年台湾の国府当局が改めて先覚諸島を宣蘭県に編入措置をとったということも尚、そのことを明確に証明
している。

     (四) 尖閣列島位置略図



















(四)領有――その後の歴史概観

 一八九五年(明治二十八年)一月、尖閣列島は日本の領土となった。無主地先占である。どこの国からの譲与、割
譲でなく、日本が『国有の領土』と説明する所以である。

 領有以来七十余年、中国からも他の如何なる国からも意義や抗議はなく、中国は自国の国定中学教科書でも尖
閣諸島は国府の区域以外になっていた(年表84) また世界の有名な地図でも、尖閣諸島は殆ど日本の領土として
扱われている。よって世界公認である。

 古賀辰四郎氏の開拓事業も絶海の無人島のことであり、困難を極めた。しかし堅忍不抜、九十戸の従業員による
古賀村を形成し、その生産物資は遠く海外にも輸出された。一九〇九年(明治四十二年)古賀氏はその功により藍
綬襃賞を国から授与された(年表37)。
 しかし古賀辰四郎氏は大正七年死去。 事業は子息の善次が継承した(年表41)。

 一九一九年(大正八年) 中国福建省民三十一名が尖閣諸島に漂着したので、古賀善次氏は、これを救助して石
垣島に曳航、石垣村は医療、食料を与え、船を修理して帰国せしめた。

 翌中華民国九年中華民国註長崎領事馮冕氏から関係者石垣村長豊川善佐氏 石垣村雇玉代勢孫伴、救助者古
賀善次、通訳プナスト(与那国の人)四氏に感謝状が贈題呈された。玉代勢孫伴はその後『富田』と改姓、左掲感謝
状は長男冨田孫秀氏が保存していたが、一九九六年(平成八年) 一月貴重な外交文書として石垣市に寄贈され、
現在は石垣市の保管となっている(年表42)。

 一九三二年(昭和七年)南島、北小島、魚釣島、久場島四島は、日本政府から有償で古賀善次氏払い下げられ、
私有地となった(年表46)。大正島は国有地のままである。
 
                 感 謝 状
            中華民国八年冬福建省恵安縣漁民
            郭合順等三十一人遭風遇飄泊至
            日本帝国沖那覇縣八重山郡尖閣列島
            内和洋島■
            日本帝国八重山郡石垣村雇五代勢
            孫伴君熱心救■使得生還故國洵属
            救災恤■富仁不譲深堪威楓特贈斯
            状以表謝悦
               中華民国駐長埼領事馮冕 

           中華民国 九年五月二十日


 古賀氏の開拓事業は、一九四〇年(昭和十五年)頃まで継続されていた。
 さる大戦後はアメリカの統治下に入り、群島組織方により尖閣諸島は八重山郡島に包括され(年表53)、また琉球
政府章典(年表55)でも尖閣諸島は琉球政府の管轄となる。

 一九五五年、久場島は米軍の演習地としえ使用(年表57)。翌一九五六年には国有地大正島も米軍の演習地と
なる(年表58)。

 石垣市は土地借賃安定法に従い、土地等級設定の為係員十一名を派遣調査せしめた(年表60)。一九六八年、
米軍は南小島に不法上陸の上陸四十五名に対し退去命令(年表61)また不法入域者(台湾漁船)がいるので米軍
は航空機によるパトロール、琉球政府には巡視艇による巡視実施する(年表62)。

 一九六九年、石垣市は尖閣諸島の行政管轄を明示するため、各島にコンクリート製の標識を建立(年表63)。

 一九七〇年、琉球政府は久場島にたいする巡検を実施。 不法入域者十四人に対し退去命令(年表64)。
 同年米国民政府は不法入域者に対し処罰する警告板を魚釣・久場・大正・南北小島の五島に設置(年表65)。

 一九七〇年以降、中国、台湾から『尖閣列島は中国領土である』との度々の抗議に対し、日本政府は『日本固有
の領土である』と繰り返し反論した(年表参照)。

 日本間の沖縄返還協定により尖閣諸島も南西諸島の一部として、他の島々とともに日本に返還された(一九七二
年五月十五日)。アメリカの沖縄統治は二十七年間も続いた(年表106)。

 一九七二年、古賀善次氏は南小島・北小島を埼玉県の実業家栗原国起氏に譲渡(年表112)。

 一九七八年、古賀善次氏死去。妻花子さんが資産を継承(年表113)。同年花子さんは魚釣島も栗原氏に譲渡
(年表114)。

 一九七八年、中国の抗議船団約200隻が尖閣諸島海域に侵入、十数日も居すわって尖閣諸島は中国の領土で
あると抗議した。但し台風接近のため雲散霧消した(年表115)。
 
一九七八年十月、中国の再高実力者 ケ小平氏来日、尖閣領有の棚上げ論をのべて日本国民を唖然とせしめた。
但し合意したわけではない(年表116)

 一九七九年、古賀花子さんは石垣市に対し小学資金として金一千万円を寄贈した(年表117)。

 一九八八年、古賀花子さん死去。古賀家の資産は遺言により栗原国起氏に贈られることとなった(年表118

 栗原氏は古賀家の遺産をもって財団法人古賀協会を那覇市に設立。

その果実を沖縄県のスポーツ振興に寄与している。古賀善次氏がテニスの愛好家であったことが因縁のようである
(年表119)。

 一九九六年一月、古賀協会(会長栗原佐代子氏)は、石垣市八島町の小公園で父子二代、生涯を絶海の無人島
開拓に捧げた稀なる業績を讃えるため『古賀辰四郎尖閣諸島開拓記念碑』を設立した(年表121)。

 現在(一九九六年)尖閣諸島の固定資産税などは、一切栗原国起氏が石垣市に納めている。

 (六)  抗議の理由――その(1)

    『尖閣諸島は昔から中国の領土である』という主張について

 中国のこの主張は、『十五世紀から中国の歴史的文献に登場し、発見の権利は中国にあり、明代にはすでに中国
の版図に組み入れられている(別の記述―明代に中国の海上の防衛区域の中にあり)ので、日本の領有権主張に
は根拠がない』台湾も同様で『台湾の付属島である』と主張している。

 [反論]
(1) 明代には中国の版図に組み入れられているーという主張について
明時代に中国の版図(領土)に組入れられてとすれば、必ず何省、何県、何郡、何村の所属という地籍(国民一人ひ
とりの戸籍に相当する)が有った筈で、これこそ絶対不可侵の国家主権の意思を示すものである。
しかしこれまで中国の政府からその存在を示されたということは聞いたことがない。
版図、海上防衛などの記述があるが、航路標識のごとき利用はありえても、地籍が存在していない以上は、領土で
あったとは認め難い。

(2) 台湾の国民政府も台湾の属島であると主張しているが、台湾でも地籍は存在していない。 一九七二年二
月、地籍の必要性を認めたためか、慌てて尖閣諸島を宜蘭県
に編入の措置をとっているが(年表94)、これは日本政府の抗議を受けて国際的に無効である(年表95)。
 しかし、国民政府のその措置は、中国にも台湾にもこれまで尖閣諸島の地籍のなかったこととを実に堂々と天下世
界に証明する効果はあったものと思う。あればこのような二重の措置をとる必要は全くないからである。
 台湾北部海域の棉花埼、花瓶埼、彭佳山三島が台湾の所属島となったのは、日清戦争後日本に割譲されて後の
事であった(基隆市史)。 これからみても、そのはるか以前に尖閣諸島が中国の、そして台湾の属島であったという
ことは、全くあり得ないはなしである。     (尖閣諸島位置略図参照)

(3) 尖閣諸島の主島魚釣島には魚釣台、沖の北岩には黄麻嶼、久場島には黄尾嶼、大正島には赤尾嶼と、四島
については中国名が府されている。
 この中国名は、中国の領土としての島名ではなく、単に航海上の標識(目しるし)としての名称に過ぎない。それは
標識島となっていない南小島、北小島、飛び瀬、沖の南岩には中国名が府されていないことがその事情をよく物語っ
ている。若し領土であれば一島一岩礁残らず中国名が付されている筈で、付されていないのは領土ではなったため
であることは条理の上からみて明らかである。

(4) 発見の権利は中国に在りしという主張について
絶海の無人島が無主地の時代は、航海業者が発見次第命名したことは一般的であった。
 琉球列島近海では記述第二章で述べてある南北大東島などのように英国航海者の発見、命名の例もある。尖閣
諸島には中国名が命名されているといわれるけれども発見者は誰であるか未だ議論のある処である。
 しかし無人島の発見、命名、即領有でないことは世界共通の常識である。

 (七)  抗議の理由――その(2)

歴史、地理、使用実態から国府に属すべきである。とい主張について
「尖閣諸島は歴史、地理、使用実態から国府に属すべきで、理にも基づき争う」と国府外相が表明した(年表78)。

[反論]
  明代に中国の版図に、海上区域の中に在り、などについては、前章『抗議の理由その(1)で既に安論してあるの
でここでは省略』。

 琉球側としても古くからシマグワー、或いは鳥島(いづれも南北小島)、魚釣島はヨロン島、或いはユクン島、又はイ
ーグン島とよんだ。久場島はクバ(和名ビロー)の群生に基づきクバジマ、大正島はクミアカシマなどとよんでいた。好
適の漁場であるので古くから漁民に知られており、沖縄、宮古、石垣、与那国の漁民が出漁していた。島名はひとり
中国名だけであったわけではないのである。

 なお標識の一つである沖の北岩については、Pinnacle Is という英国名などもあった。

地理的面について
 上図は尖閣諸島の主島魚釣島を中心とした各地との距離をしめしたものである。面白いことに魚釣島は琉球、福
州間の丁度中央に位置、何れも四二〇キロメートルである。しかし魚釣島は西端に位置し、他の島々はその東方へ
と点在している。

 基隆間は一九〇キロであるが、八重山群島の石垣島は一七〇キロの距離で、両者の比較でも石垣島の方が近
い。各島々を総合的にみても、やはり沖縄側、八重山川に近いことが分る。中国、台湾に隣接した島とはいえない。


使用実態
  一八九五年(明治二十八年)2本領有当時、尖閣諸島は完全に無人島で、人の居住趾もなく文化的遺産も全く
認められなかったようである。従って過去において所属国による実効的支配は全く無かった者と思われる。
 日本領有後は、古賀辰四郎父子による開拓が実行されたことは周知の通りである。
戦後は台湾漁民によって鳥類の卵が盗取されたり、海鳥が殺されたりして、アメリカ民政府や琉球政府は取り締ま
りに難渋した。処罰の警告板を軍が日、英、中の三国語で立てたこともある。
 以上のように歴史、地理、使用実態からみて中国に属すべき、という理由は全く言えないと思う。

[註1]  朝日新聞記者の話  台湾では尖閣諸島の島名を知っている漁民は、会った限りでは一人もおらず、みん
な単に『無人島』と呼んでいたということである。政府の領有主張とは大きく矛盾するという感を禁じ難い。

(八)抗議の理由――その(3)

 尖閣諸島は日清戦争で日本が領有した。従って去る大戦の結果台湾島と共に中国に放棄した、という主張につい
て〔年表105〕。

[反論]
 日清戦争は韓国の東学党の乱に乗じて清国が出兵したのに対し、日本も東洋平和のために出兵した。
一八九四年(明治二十七年)八月一日宣戦布告、清国と干戈を交えた。日本軍は連戦連勝、北京を衝く勢いを示し
た結果清国は和を請い、翌一八九五年四月、下の関で講和条約を締結した。世に『馬関条約』として知られている。
(註・馬関は下関の旧名である由)

 日本はこの戦争の勝利によって台湾島とともに尖閣列島も割譲を受けた。従って去った大戦でボツダム宣言により
之を放棄した、という主張である。

 日清戦争で戦勝の結果日本が中国から割譲を受けたのは、遼東半島、澎湖諸島、台湾島の三地域であって、尖
閣諸島は入っていない。しかし三国干渉、即ちロシア、ドイツ、フランス三国の干渉を受けて日本は涙をのんで遼東
半島は之を中国に返還した。結局日本が割譲を受けたのは膨湖諸島と台湾島の二地域であった。

 割譲を受け統治に当たった台湾総督府の管轄の中には、尖閣諸島は入っていなかった。筆者自身戦前数十年台
湾総督府に勤務した経験がありこの点全く疑う余地はない。尖閣諸島は日本固有の領地であり、従ってボツダム宣
言を受諾した結果台湾と共に領有を放棄する理由はなく、明らかに誤解である。
 
 戦後南西諸島の一部としてアメリカの統治下に在り、日本に返還されたことがその間の事情をよく物語っている。

 『尖閣諸島は、日清戦争で日本が強奪したもので歴史的に中国固有の領土だ。われわれは日本帝国主義の侵略
を是認できない』と声明。
  これは日本の知識人といわれる人々の声明である〔年表105〕。

以上何れも歴史的大きな誤解である。

(九)大陸棚開拓と領有権問題

 一九六九年五月、エカフェ(国連アジア極東経済委員会)は、『尖閣諸島周辺大陸棚が世界で最も有望な石油貯
蔵所の一つであろうという高度の蓋然性が存在する』旨の報告をした。

 これまで尖閣諸島が日本の領土を認めてきた中国が、俄然自国の領土であると主張氏はじめたのはこの頃からで
ある。また台湾の国民政府も同様、中国領を主張した。

 一九七一年十二月三十日、中華人民共和国外交部は、次の通り激越な口調で声明を發表している。
 (一部抜粋)
−中華人民はかならず台湾を開放するー中華人民はかならず魚釣り島など台湾に付属する島嶼を回復する。
   (以下省略)

 中国政府は一九九二年新領海法を公付し、その中に尖閣諸島は中国の領土となっているということである。尖閣
諸島回復への第1歩という意味であろうか?

 しかし尖閣諸島は、既に記したように、一八九五年(明治二十八年)以降日本領土として編入され、石垣島登野城
村二三九〇番地〜九三番地の地籍が設けられ、実効的支配下にある領土である。また明らかに台湾付属の島嶼で
もない。

 列島の発見、命名者は、中国航海業者であると思われているが、発見、命名、則領有でないことは世界共通の理
念である。

 中国は一六八三年台湾領有、福建省に属せしめたが、尖閣諸島については何らの措置もとられず無主地の無人
島として放置されていた。無主地の無人島の先占領有は国際法上適用とされており、日本の領有措置に瑕疵は全
くないはずである。

 以来七十余年、中国は何らの異議表示もなく、中国教科書でも日本の領有を記し、外交文書でも日本領であること
を明記している(記述参照)。

 大陸棚条約は、未経験の大きな波紋を関係各国に与えている。最近の国際法の考え方はどのような方向を示して
いるか?
(1) 日本も中国も大陸棚条約に加入していない。しかし大陸棚は慣習的国際法として認められ始め、無加入国も
拘束される。
(2) 大陸棚の周辺に他国の小島嶼がある場合、その島を基点として中間線を主張するのは公平という原則からみ
て疑問が生じる。
(3) 大陸棚画定は紛争を起こしやすい。共同開発が新しい傾向になりつつある。海底資源が液体や気体の場合は
とくにそうだ。
(4) 領土帰属についてはクリティカル・デートの設定が問題である。紛争發生時点以後の行為は問題とは無関係と
なる。(一九七二年第二号・朝日アジアレビュー)

 以上は記してある通り一九七二年の記録で一九九六年(平成八年)の現在では日中両国とも、大陸棚開發を含む
国連海洋法条例を承認し、それぞれ必要な措置を進めつつあるようである。

 しかし、両国の区域の画定については、日本側は一般的原則に従い、両国の中間線を主張しているのに対し、中
国側は大陸から沖縄諸島海底まで続く大陸棚全体に権利が及ぶとして、主張が大きく違っている。

 中国側は自らの主張の通り、既に中間線を越えて尖閣諸島の日本の領海にも進入し、海底地下資源の試掘を実
行しつつあり、河野洋平外相が中国の銭基?外相に対し、善処を求めたいという報道もあった。

 中国側は尖閣諸島の領有権もからめて考えているらしい気配があるが、海洋法条約はもともと領土問題の処理を
目的としたものではないこと明らかで、この問題を先行せしめることは開拓問題の成功は期し難い。

 結局、沿岸関係諸国は、領土と開拓は次元の異なる問題として、平和的、現実的に公平、公正に関係国間の話し
合いになることを進めるべきであると思う。

  ともあれ、今後容易ならぬ困難性の予想される大きな問題である。

(十)大きな誤解の存在

 一九九二年二月、中国政府は『尖閣諸島を中国領土であると明記した新領海法』を制定公布したということであ
る。戦国時代ならいざ知らず、二十世紀も終わらんとする今日、このような国際法的無法なことがゆるされるのであろ
うか?まことに奇怪な話である。

 日本の抗議に対し中国の江沢民総書記は『ケ小平氏の棚上げ論を変更する考えのないことこと。日中両政府は極
めて冷静に対応してきた』など、合意もしていない棚上げ論(年表129)などを持ち出してあいまいな弁解をしてい
る。まことに国際間にあり得べからざる理不尽な事といわなければならない。

 中国は一九七〇年から八〇年にかけて、しきりに『覇権主義反対』を主張し、世界の国々に厳しく表明してきた。強
大国などの一方的横暴な国際政治に牽制を加える意図があったものと推測されるが、しかし今、尖閣問題で中国が
とっている政策は、それこそ声を大にして他国に迫った覇権主義そのものではないのか、大きな矛盾であり、自国に
とっては脅威であり、将来大きなトラブルの種子となること必至である。

 尖閣諸島問題に関しては、一九九八年と、一九九六年九月に十六日、十月七日に、大規模な中国、台湾、マカ
オ、香港などからの抗議船団が尖閣の海域に進入して、死者まで出る大事件となった。

 これまでの抗議の言い分を報道によって判断すると、中国側に大きな誤解があるように感じられる。それは四章抗
議の理由(1)〜(3)で述べてあるので、ここでは重ねて書かない。総体的に見ると、中国は『尖閣の諸島は昔中国
の領土であったが、日本に奪取された』ということ、『台湾の付属島であったが、日本に奪取された』などということ
が、本当の如く誤解し、一種の伝説となって伝承されているのではないかと推測されるのである。

 清国は近代国家として領土問題に手を打つことが他国に比し、かなりおくれていたと思われる。

 尖閣諸島は、明治初期の頃まで、まだ無主地先占の先手勝の時代であった。清国が先手を打っておれば間違い
なく清国領になっていた筈であるが、清国は先手を打たなかった。一八九五年(明治二十八年)、日本が先手勝ちで
地籍を設けて領有した。国際法的には無主地先占、そしてすぐ実効的に支配した。国際的に全く瑕疵の無い留処置
であり、また中国の領土を奪取したものでもない。

 これに対し以後七十五年間、中国から何らに異議や抗議もなく、自国の国定教科書でも尖閣諸島は日本の領有と
し、一九一九年(大正八年)福建省三十一名の漂流者が尖閣諸島で救助された時のの中国の外交文書(感謝状―
―現存)でも明確に日本領有を明記してある。

 日本の外務省は『日本の尖閣領有は疑う余地は全く無い』とし、 『中国の領有権主張はその領有を裏つけるに足
る国際法上の有効なる論拠とは言えない』と反論した(年表101)。

 以上のように、中国は『尖閣諸島は昔、中国の所有であったが、日本に奪取された』という誤解があると思う。しか
し中国や台湾には地籍を設けて尖閣諸島を領有した歴史は全くないのである。大きな誤解である。もし地籍があった
とすれば、それは今日まで何省、何県、何郡、何村の所属島として存在して居た筈であり、台湾の国府が宣蘭県に
編入(一九七二年(年表94)するなどの措置は全く必要のないことである。また日本領有当時当然自国領として抗
議をした筈である。領土に厳しい中国がだまって見過ごす筈がないではないか。

 (十)   む   す   び

 以上、各章で、尖閣諸島の日本領有の正当性に対する抗議に根拠がないこと、中国、台湾側には大きな誤解が
存在すると推測されることなどについて述べてきた。尖閣諸島を巡る東支那海では、領海二〇〇浬問題、地下資源
開発問題、中国の新領海法問題、香港の返還問題等など、国際的問題が積み重なって問題は、一層複雑多岐化
の傾向にある。

 しかし、尖閣松涛の日本領有は無主地先占、国際法上何らの瑕疵もなく極めて正当であり、率直に言って後手に
なった中国側は日本の領有は当然認めざるをない。現に事実は事実として認めた。何も中国の領土となっている土
地を奪取したわけでもないからである。

 中国大陸と台湾では地籍を設け尖閣諸島を領有したという歴史はない。それを『昔は自国の領土であった』と誤解
し思い込んで、大規模な抗議行動を繰り返すことは筋違いであり、無意味である。
 又、中国政府が新領海法を制定公布したことは、尖閣諸島がそんなに遠くない時期には中国の領有となる、という
意図がありありで、日本にとっては測り難い脅威である。既に今回の抗議報道の中でも、尖閣諸島は既に中国の領
土であるという趣旨で書いた者もあり、領海法はさらに一層大きな誤解を生む因子となる筈で、今後の成り行きが心
配される。
 日本は領有した尖閣諸島については武装して隣接国や近海航行の船舶に脅威を与えているわけでもない。現在
は領海と、島の自然保護と領海漁場の保護に巡視船をもって当たっているに過ぎない。総て国際法上のことである。

 尖閣報道の中には『日本は巡視船を退去させ、以前の状態に戻すべきだ』という香港新聞の発言もあるが、もしそ
んなことをしたら、すぐ中国に乗っ取られる筈で、到底賛成できない。とんでもない話である。

 一九九六年十月十五日の台湾紙によれば『十月一日から三日間、中国空軍機は、尖閣諸島に近い東支那海上空
で異例の飛行訓練を行った。領有権問題にからむ示威行為であろう』と述べている。虎視耽々たる中国の構えた姿
を見る思いである。

 日本の、また沖縄の知識人と称せられる人たちの中には、日米安全保障条約も、自衛隊も必要ないと主張する向
きもあるが、今回のあのような抗議船団の殺到、死に物狂いの活動家の行為などを見ると、ことは万事話合いで片
づくものか疑問で、改めて日米安保条約、専守防衛の自衛隊の存在を考えてみないわけにはいかないという思いを
禁じ難い。

 一九九六年(平成八年)十月二十日の衆議院議員選挙後、十月七日の日本新聞協会主催の各党首意見發表会
では、一党の例外も無く『尖閣諸島は日本の領土である』と意見の一致を見た。蓋し当然の帰結である。

 われわれは国内的にも、国際的にも、熱烈に平和を希求する。人類の人生の幸福は平和の中にこそあるのであ
る。恐らく中国でも台湾でも国民の意向は同じであると思う。

 戦争という不幸な時代は二度と迎えたくない。そのためには近隣の国々が互いに理解し仲良く、話合ってトラブル
となるような因子は予め一切排除しておくことが必要である。当然他国の領土をかすめ取るなどの野蛮はやめるべき
である。要するに、

(1) 外務省は日本の尖閣領有の正当性を中国、台湾に正確に示す努力が必要であると思う。

(2) 領有と資源の開発とは次元の異なる事であり、両者話し合いでことは公平・公正にすすめるべきである。

(3) 海洋法で明記の無いのは領土の領有権は現状と認めたものと解すべきで、これをもって領有権を主張するの
は妥当ではないと考える。

(4) 尖閣領海に不法に進入する者は、国際法に則り、厳格に対応処理すること。

以上、率直にわれわれ国民の気持を述べて、この稿を終ることとしたい。
      (一九九六年十月二十日)


トップへ
戻る



世界の領土・境界紛争と国際裁判