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尖閣諸島の領有権問題


尖閣諸島開拓時代の人々 (3)


古賀善次資料





沖縄縣人事録 沖縄朝日新聞社編纂
(昭和12年9月刊)

  古賀商店取締役社長
 古 賀 善 次
  那覇市西本町四ノ一五




君は福岡縣縣入古賀辰四郎の長男にして明治二十六年四月十九日 を以て生れ、大正七年
家督を相続し今日に及 ぶ。海産物輸移出商として殆ど全縣下に取引網を有し古くから縣内
外に知られた老舗たり、時世の進運に件ひ数年前之を株式會社に変更し、自ら其社長とな
り、家業堅實に益々隆盛の一途を辿れり。尚業務の旁ら那覇無敵株式會監査役たり、其他那
覇市水産會代議員、同評議員、那覇鰹節商同業組合、財團法人沖縄奨學會、沖縄縣膿育協
會、那覇市倍育協會等の各評議員として多方面に重きをなせり、資性渦恭にして實直、然も
明朗洞達な反面あり、スポーツに趣味を有し、琉球新報軋運動部憺常記者として本縣操鰊界
に於いても多年其令名を知らろ。
 【家庭】 妻花子さん(明三一)




    こ     が    ぜん    じ
   古    賀   善    次

   沖縄タイムス芸術選賞選考委員、沖縄
   社会人野球連盟顧問、沖縄軟式庭球連
   盟顧問、ゆう・もあクラブ沖縄支部理
   事、沖縄ユースホステル協会理事、那
   覇.ロータリークラブ会員
 一八九三年、那覇市の生まれ。





「沖縄人物三千人」   沖縄タイムス社刊
昭和35(1960)年3月刊

 東京大倉商業学校に学ぶ (一九一〇年卒)。古賀商店(尖閣列島)の経営のかたわら那覇商工会議所議員、商
工部長の公務をつとめる。一方沖縄野球審判協会々長、沖縄県体育協会野球部長・庭球部長、沖縄陸上競技連盟
副会長、那覇市体育場会副会長、大日本体育会沖縄県支部理事などを歴任して、沖縄スポーツ界に尽力する。そ
の間に琉球新報の運動部記者として、ベルリン・オリンピック(一九三六年)に自費出席して取材にあたる。一九六
一年には沖縄タイムス社主催芸術祭の審査員(琉球古典舞踊部門)をつとめる。

 趣味は旅行
 〔家族〕妻・花子(一八九八年生)
  本籍 那覇市西本町四の一五
  任所 那覇市美栄橋町一の四六
        電話(三)二○八三









『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月) 142-147頁

毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地≠ナす
「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた地主≠フ言い分
                            
                       古賀善次(こが ぜんじ)
                    (那覇市在住)


 登記は石垣島にある

▼解説1
 尖闇列島――。
 沖縄本島のはるか南西、洋上に浮かぶケシ粒のような無人島。日本の地図では、沖縄県石垣島に属する。魚釣
島、南小島、北小島、黄尾嶼(久場島)、赤尾嶼(大正島)の五島と三つの岩礁からなり、総面積六千三百二平方`。
もっとも大きな魚釣島でも東西約四`、南北一`の小島にすぎない。中国、台湾側の呼称は魚釣台列島。尖閣列島
の名は明治三十二年、沖縄師範の教師・黒岩恒氏によって、その姿かたちから命名されたという。
 ところが、この小さな尖った岩礁が、五月十五日の沖縄復帰を機に、まさにトゲのように日、中、台の外交問題に突
き刺さり、中国との国交正常化には避けて通れない重要懸案になろうとしている。
 いったい、こんな絶海の無人島が、なぜそれほどの領土問題になるのか。それは、この海底一帯が、世界の五指
に人る最後の大油田≠セということなのだ。ニューヨーク・タイムスの評価によれば「一兆j以上の価値」とのこと、
そう聞けば騒がれるのも当然というものだろう。
 そこでまず、台湾が自国の領土を主張して、魚釣島に青天白日旗を立てるなど、既成事実づくりを始め、一方的に
世界の大石油資本ガルフ社に、採掘権を与えてしまった。
 そして、つい最近、中国もまた自国の領土を強く主張し始めている。だが、日本政府は、歴史的に自国の領土であ
ることを確信してどこかのんびりと構えている。また一般に、日本人のこの問題に対する意識は低い。
 そこで問題は、この島が真に誰のものであるかということであり、歴史的なその経緯ということになる。
 これだけの問題をはらみながら、実はこの島、個人の持ちものだというのである……。その持ち主≠フ名は、那
覇市美栄橋に住む古賀善次さん。七十八歳。
 一兆jといえば、沖縄の年間予算の(二億j)の五千年分。この宝庫尖閣列島の所有者としては質素すぎるすま
いで、リューマチとゼン息とを病んで寝たきりの古賀さんは、きちんと布田の上に正坐して、まことに淡々と所有
の正当性を訴えるのである。


問題の尖閣列島の所有者という古賀氏



▼証言1
 私は子どももいませんし、考妻と二人でのんびり暮らしておりまして、正直石油騒ぎには関心ございません。
 尖閣列島が私個人の所有になったのは昭和七年からですが、そもそも尖閣列島は私のおやじが探険し、明治政
府から使用権を受けていたものなんです。それはもうはっきりしております。
 私の父親、古賀辰四郎は、一八五六年(安政三年)福岡県八女郡に生まれました。八女地方はお荼の産地として
知られ古賀家も代々荼栽培を主とする中流農家でした。
 古賀家の三男坊だった辰四郎は、明治十二年沖繩に茶の販売にきました。商売は順調に伸び、以後辰四郎は那
覇に居を構えることになりました。そして明冶十五年、八重山石垣島に支店を設けたのですが、この八重山進出が
尖閣列島探険につながったのです。当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝
わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったそうです。お
やじもそんな話を聞いたんですね。そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探険に行こうということにな
ったんです。明治十七年のことですがね。
 この探険に詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう、翌十八年、父は明治政府に
開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰
属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
 ところが、父の話を聞いた当時の沖縄県令、西村捨三がたいへん興味を持ちまして、独自に調査団を派遣しまし
た。調査の結果、島は無人であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に、
これを日本領とするようにとしきりに上申しました。
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探険から十一年後の明治二十八年です。父の探険や西村県
令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言にふみ切らせた理由と
思います。
 この結果父は、三十年無償供与という破格の条件で尖閣列島の借地権を手に入れることになります。破格とはい
いますか、要は無価値に等しい島だからということでしょう。
 その後間もなく、父は数名の労働者を引きつれて魚釣島に渡りました。
 いちばん広くて水のあるのは魚釣島だけですからね。父が事業をしていたころは、久場島、南小島、北小島にも労
働者が住んでいましたが、みな天水利用です。むろん畑なんかもできません。食糧は石垣島や那覇から運ばせてい
ました。
 父はこの四島に、鳥の羽根加工や鳥の糞を含んだ珊瑚礁を切り出す工場を作り魚釣島にはカツオ節の製造工場も
作りました。何しろ海鳥の宝庫≠ナす。カツオドリ、セグロアジサシ、アホウドリ、ウミツバメなどが群生していまし
たから。そして、加工した羽根や剥製は主にドイツを中心に欧州へ輸出しました。また、グアノと呼ばれる鳥糞を含ん
だ珊瑚礁は、肥料として台湾に売りました。
 事業は当たったようです。父が陣頭に立って、十五d程度の船が入れる港もつくられました。
 あの島に、多い時は二百人を越す工員や労働者が住みつきまして、活気にあふれていたものでした。
 大正七年、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年には三十年の借地期限も
切れたのです。
 そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたの
で、昭和六年に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小鳥、北小島の四島は私
の所有ということになったわけなのです。これら島の登記は、現在も石垣市にちゃんととありますよ。


  中国も認めた古賀氏の所有権

▼解説2
 では、台湾や中国は、どういう論拠をもって魚釣台列島≠自国領というのだろうか……。
 去る三月三日、ついに中国は、国連の場(海底平和利用委員会)で「米国は日本の反動勢力と共謀し沖縄返還
≠フ欺まんを利用して尖閣列島を日本の領土に組み入れようとしている」と非難し、「台湾省とそれに属するすべて
の島は、尖閣列島その他を含め中国の神聖な領土の一部である」と強詞している。
 まず最初にクレームをつけてきたのは台湾だが、国民党発行の魚釣列島問題資料彙編≠ネどから見ると、その
論拠は遠く四百年以上の昔に遡っている。そもそも発見したのは中国人で、一五二四年にはその名が古書に見える
というのだ。冊封使として琉球王に使いした勅使の航海日誌に、この島のことが記録されており、中国領とされてい
るというのである。
 そして、古くから漁民はこの海域で操業を続け、避難地としても使っているからともいっている。なおいまひとつの理
由は、日本の文献にこの島の名が載っておらず、明治十四年の内務省の地図には尖閣列島の名はあるが、個々の
島名は載っていない。だから……、というわけである。
一方、中国側の主張は、歴史的な根拠としてはほぼ同じ。ただこれに「日本政府は中日甲午戦争(日清戦争)を通じ
てこれらの島をかすめ取り、さらに当時の清朝政府に圧力をかけて、台湾および澎湖列島の割譲という不平等条約
(下関条約)に調印させた」といういいかたがつく。
 さて、対する日本の主張の要点は、「尖閣列島は明治十八年以後調査を行なってきたが、無人島であり清国の影
響がおよんだ形跡はない。それを確認して明治二十八年一月十四日に正式に宣言をして領土に編人した。よって明
治二十八年五月に締結された下関条約で、清国から割譲を受けた台湾および澎湖諸島の中に尖閣列島は含まれ
ていない。なおサンフランシスコ条約でも、尖閣列島は放棄した領土には含まれておらず同条約に基いて米施政権
下におかれた」というわけである。

▼証言2
 おやじが探険してから九十年近く、私が払い下げを受けてから四十年にもなります。にもかかわらず中国が何かい
い始めたのは、やっとここ二、三年のことじゃないですか。何をいっているんですかねえ。
 戦後、私の所有する島のひとつ久場島を、米軍は射爆場として使いはじめました。
 使いはじめたのは終戦直後かららしいんですが、米軍が私に借地料を払うようになったのは昭和二十五年からで
す。
 地料は年額一万jあまり。無期限便用となっていました。
 だから私は、石垣市にちゃんと固定資産税を納めています。昭和三十四年からですが、去年までは四百j、今年
からは四百五十j、ちゃんと払っているんです。
 それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。
 大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、
難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人たちも彼
等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
 翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄
県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人か
らの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。ええ、いまでも保存してありますよ。


油田の試掘を

▼解説3
 琉球政府のある人物がいった。「五月十五日が開始のゴングですよ。それから、沖縄資本、本土資本、国際資本
の血みどろな闘いが始まるわけです。外交の面から見ても、石油なんかなきゃよかった……」
 発端は先にも述べた台湾政府のガルフに与えた採掘許可といえる。当時すでに、この海域に豊富な石油資源が埋
蔵されていることは知られていた。一番手は米海軍。海洋調査船FVハント号が大油田の存在をかぎだす。が、米海
軍は慎重≠ノ、発表をさけた。しかし、二番手の国連エカフェのCCOP(アジア沿海鉱物資源共同探査調整委員
会)の調査結果発表で表面化し、総理府も調査に乗りだした。むろんこの話を、本土石油資本が虎視タンタンとねら
っていたことはいうまでもない。
 ところがここに、そうした大規模な調査とは別に二十三年間も独力で調査し、その存在を探り当てていた人がいた。
そして昭和四十四年二月、必死のやりくりをして、尖閣を中心に五千余件の鉱業権の申請をした。原則として石油の
採掘権は最初に申請した人間に与えられる。
 当然、横目で見ながらねらっていた石油開発公団は慌てた。そして、その一週間後、同公団職員である沖縄出身
者古堅総光氏の名まえで七千五百件の鉱業権を申請した。ところが、それを追うように第三の申請者が現われた。
 こうしてついに、第一の申請者を守る会ともいうべき「尖閣資源促進協議会」まで発足。この会の会長である平良良
松那覇市長をしてこういわせている。
 「本土の資本の力で、これまでけんめいに努力してきた人の業績をふみにじり、地元にいわず通さず、一方的に利
益を吸い上げて、残ったものは石油公害だけという愚を、県民のために避けねばならんということですよ」
 では、もう一人の渦中の人、大見謝(おおみじゃ)恒寿さん(四十六歳)に、その過去と現在を聞いてみる。氏は現
在那覇市国際通りで宝石商を営んでいる。

▼証言3
 そりゃあもう、最初はみんな気違いあつかいでしたよ。
 戦後大阪から郷里の国頭(くにがみ・本島北部)に引き揚げできましてね、焼け野ケ原になった沖縄を見ながらいろ
いろ考えたものです。あの戦争はいったい何で起こったんだろうかなんてね。そのころですよ、沖縄にも石油があるん
じゃなかろうかという考えにとりつかれたのは。
 石油があると考えた理由は簡単ですよ。
 八重山には石炭が出るんです。古い文献なんか見ていると、どうもも油もあるらしいんです。で、調べてみると、たし
かに竹富島の海域には石油天然ガスが噴き出していますし、油も浮いている。有孔虫の死がいなんかも無尽蔵にあ
りますしね。
 とはいっても、専門は機械技術で、私は石油はまったくの素人なんです。ですから、海へもぐつて海水や岩などを集
め、あちこちに頼んで分析してもらいました。地質を調べるため自分でボーリングもやってみました。
 今思えばいわば石油気違いになったようなものでした。以後十九年間に、尖閣列島周辺に行った回数は二百回を
越えています。そして、日を追って石油があることに自信を深めて行ったわけです。
 昭和四十一年、私は、三百八件の試掘権を琉球政府に出願し、四十四年には五千百五十五件の採掘権を追加申
請しました。エカフェや総理府の調査より数歩先行してましたね。
 ところが、エカフェの調査によって石油があると発表されてから大騒ぎになりました。
 このときからあの島をめぐって、石油戦争″が始まったのです。
 まず日本の石油開発公団側から一緒にやろうという話が持ちこまれました。いろいろとうまい話も出ました。しか
し、狂人といわれた十九年の苦労をそう簡単に人手に渡せるものではありません。私は断りました。
 すると、二度目の出願の一週間後ですが、古堅総光さんという名で七千五百件の鉱業権が申請されたのです。調
べてみると古堅なる人物は沖縄開発公団の職員だったのです。
 それからですよ、根も葉もない中傷が流れ出しましてね。バックに外資がついている、右翼系の悪いヒモがついて
いる、はては、あいつは売国奴だ、とまでいわれました。私は外資は断わっているんです。外資のヒモつきは本土側
ですよ。本当に腹が立ちました。
 ところが、更に第三の申請者、新里景一さんという人物が一挙に一万千六百七十一件の大量出願者として登場し
てきたのです。しかも、この鉱区は、どういうわけか私の出願した鉱区と重複し、その上私の書類の不備をつくかたち
て申請されたのです。
 その人も、前に私と一緒にやりたいといってきた人物でね、背後にはアメリカ系資本がひかえていての話なんで
す。
 私が断わった結果が丸写し式の申請というわけなのでしょうか。なお、この人の申請した権利は、昨年十月アメリカ
側に渡ったということです。
▼解説4
 この尖閣列島問題、すでに不吉な形容詞がたくさんついている。いわく第二の竹島∞第二の山東問題=Aあ
るいは日中間の金門島%凵X。
 まちがってもおかしなことにはしてもらいたくない。米中会談以後、特に自主性を問われる日本外交にとって、すで
にアメリカからゲタをあずけられた格好のこの問題こそ、その試金石として問われることになりそうだ。
  (インタビューと構成・若林弘男=在沖縄)







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