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尖閣諸島の領有権問題      「参考資料(1) 論文・書籍15」



尖閣列島の領有権問題

―台湾の主張とその批判―

                       奥原敏雄

 尖閣列島の領有権が、国際法上日本に帰属するものであることについては、すでに本誌五十二号(尖閣列島の法
的地位)であきらかにしてきたとおりであるが、この問題は、尖閣列島研究会の報告(本号記載)によって、さらに詳
細な分析がなされているので、本論文では、若干角度をかえて国府及び台湾の新聞などにおける尖閣列島に対す
る領有権主張の理由を紹介するとともに、これに含まれる種々の問題や事実関係にコメントを加えながら、批判的な
検討を加えてみたいと思う。


一 国府の動向

 尖閣列島に対する日本の領有権主張(注 一九七〇年(以下年号略)八月十日参議院沖縄及び北方問題特別委
員会における愛知外相の発言)を批判する動機が八月十六日監察院に提出されたのをはじめとして、同月二十七日
中華民国国民大会代表全国連誼会、ついで九月三十日台湾省議会が、それぞれ列島の中国領有を主張する決議
を採択した。また九月四日には魏同明外交部長が立法院の秘密会で、列島の国府帰属を証言、さらに九月二十六
日付国民党機関紙中央日報によれば、二十五日の立法第四十六会期の審議において、汝剣虹外交部代理部長
は、王子野立法委員が琉球列島に対する国府の主権主張と釣魚台列島との密接な関係を指摘したことについて同
意を表明した、と伝えている。
 国府、具体的な根拠を指摘して、尖閣列島の領有権を主張しているわけでない。たとえば、さきの全国連誼会決議
は「尖閣群島は確かにわが国の領土であり、政府に対し、憲法にもとづいて立場を堅持、すみやかに同群島に行政
区を設立して、行政建設工作を推進するように要請する」とのべているだけであり、台湾省議会の決議も「尖閣列島
は、わが国領土主権に属するべきであり、日本政府はいかなる要求も提出すべきでない」と主張しているにすぎな
い。
 一方監察院に提出された動機での「ポツダム宣言及びサン・フランシスコ講和条約は、日本の海外領土要求を禁じ
ている」といった主張、あるいは「魚釣台問題を論ずるには、まず琉球問題を論じなければならない。琉球列島はもと
もとわが国に属しているのであって、歴史的な関係と第二次大戦の戦勝国であるという観点からしても、主権を主張
する理由をもっている」といった王子野立法院員の発言は、従来からしばしば国府によって言及されてきた琉球列島
に対する領有権主張に、尖閣列島の領有権を結びつけたものである。
 もっともさきの立法院秘密会で魏外交部長は、尖閣列島に対する国府の領有権根拠を数えあげたといわれてい
る。しかしこれまでのところ魏部長が指摘した具体的な根拠がいかなるものであるか、あきらかでない。また全国連
誼会での決議採択において、各代表が国際法地理及び歴史関係に照して、同国の領土の一部であることは疑いな
い、と発言したと
伝えられているが、同様にいかになる国際法の根拠にもとづいてこうした発言したのであるか不明である。


二 台湾の新聞における領有権の主張

このように国府は、公式には、自国の領有権を主張する具体的な根拠をあきらかにしていない。一方中央日報やそ
の他の台湾の新聞などでは、ある程度、具体的な根拠にもとづいた列島に対する領有権主張がおこなわれている。
その一つは、尖閣列島を最初に発見したものは、中国人であり、また中国は列島に対して
領有意思を示してきたとして、一五三四年(天文三年)の陳侃及び一五六一年(永禄四年)
の鄭汝霖の冊封使録に尖閣列島の代表的な島嶼の名前が見出されること、さらに中国に属していることをうかがわ
せる記述のある点を強調する。台湾の新聞では、この他琉球の文献である程順則(名護×文)の指摘広義(一七〇
八年・宝永五年)日本の文献として林子平の三国通覧図説を援用して、上述した主張を裏付ける資料として扱ってい
る。あるいはまた琉球のもっとも古い文献である向象賢(羽地朝秀)の中山世鑑(一六五〇年、慶安三年)にも言及
し、同書の中に出てくる尖閣列島に関する記述は陳侃の使録を転職したものにすぎないと断わり、日本が領有権主
張の根拠として用いえないことを間接的に指摘している。(注 八月二十二日中央日報楊仲發論文「尖閣群島問
題」、八月二十三日大華晩報「紙上座談会」)。


 第二の根拠として、尖閣列島は、古くから基隆や蘇×の漁民の絶好な漁場であり、また魚釣島、久場島には沈船
解体工事のために台湾人が建設した三〇〇メートルのトロッコ道路、幅四フィート、長さ一二〇フィートの鉄製舟着
場、バラックなどの施設が存在すること、その他船山列島を撤退したとき遊撃隊が、十五年前に五人乗り帆船「自由
中国」号が魚釣島に避難した事実などを指摘したり台湾省水産試験所の試験船が列島周辺の海域と漁場の状況を
調査してきたことを強調する(八月十五日中央日報、八月二十四日中央日報「釣魚島究意是什仏様子」)。 
 第三の根拠は、尖閣列島及びその周辺の大陸ダナは、国府陸地の延長部分であり、そうして大陸ダナに対する沿
岸国の主権は観念上の占有、また公告明示などの手段をもってその要件となすものでないから、国府によって同列
島が占有されていないとしても、同国が尖閣列島に対し主権を行使することを妨げない、とするものである(八月十六
日、中国時報情勝記事、八月十九日、民族晩報告揚尚強記事)。


三 領有権主張に対する批判的検討

(一)冊封使録の証拠価値 八月二十二日楊仲撥論が指摘するごとく、歴代冊封使録に列島の代表的な島×の
名前が見出されるが、このように冊封諸使録において尖閣列島の存在が記録されているのは、冊封使たちが中国大
陸の福州から琉球の那覇へ渡る場合に、尖閣列島を航路の目標としていたからであった。元来福州と那覇は、地理
的位置からみればほぼ東と西に位置しているので、両者をを結んだ直線距離を航路とするのがもっとも近道である
が、この間にはまったく島がなかった。また当時の船舶の構造や航路技術は季節風と海流を利用しなければならな
かった。したがって、もっとも安全かつ効果的な航海は最短距離を航行するということではなく、季節風や海流を考慮
しながら、しかも目標となる島×が存在するところを航路とすることであった。一七一九年(享保四)の中山伝信録
(徐葆光)は、当時の航海の方法を次のようにまとめている。「琉球は海中にあり、本来淅江、福建との地理的位置
は東と西にあたる。ただしその中間は平坦にして山がない。船が海中を航海するとき、まったく山を持って基準となし
ている。福州より琉球へ行く場合には、五虎門を出て必ず籠鶏、彭家などの山を目的の目印にとる。それらの諸山は
皆南寄りのところにある。故に夏がくると南西の風を利用し、南東方向などの羅針盤を併用して、やや南に×って行
くとだんだん折れてちょうど東になる。琉球より福州に帰る場合には、姑米山をで必ず温州の南紀山を目的にとる。
山は北西寄りのところにある。故に冬がくると北東の風を利用し、北西などの羅針盤を用い、やや北に×って行くとだ
んだん折れてちょうど西になる。彼我の地理的位置は、東と西にあたるといえども、もっぱら東西を示す羅針盤だけを
もって基準にし、しかも船を走すとき、必ず風土を占めるからである。(琉球在海中本興×?地勢東西相値但其中平衍
無山船行海中全以山為準福州往琉球出五虎門必取鶏籠彭家等山諸山皆偏在南故夏至乗西南風×用辰等針××
南行以×折而正東琉球×福州出姑米山必取温州南×山山偏在西北故冬至乗東北風×用乾戌等針×北行以×折
而正西離彼此地勢東西相値不能純用卯酉針径直相往来者皆以山為準且行船必貴占風故也)。
上述した中山電信録でも触れられている鶏籠等、彭家島(彭佳島)を目印にとった後、冊封船は、さらに魚釣島、久
場島、久米赤島(大正島)、久米島を目標としながら那覇へ入港するするわけである。もっとも航路の目標としながら
那覇へ入港するするわけである。もっとも航路の目標となっていた尖閣列島の島×の名前は、時代によって異なるも
のもあった。たとえば久場島という、名称は十九世紀以後の冊封使録(注 一五三八年(天保九)の林鴻年、一八六
六年(慶応二)の趙新の使禄)用いられており、それ以前の十六世紀後半頃までは黄尾嶼(注 一五三四(天文三)
の陳侃、一五六一年の鄭汝霖使録)十七世紀待つ以後黄尾嶼という名前が使われている(黄尾嶼と言う名称は、一
五七九年「天正七」の×崇業、一六〇六年の夏子陽、一七一九年「慶長一一」の徐葆光、一七五六「宝暦六」
の周×、一八〇八年「享和五」の斎×の使録で用いられている)。また久米赤島という名前も十九世紀以後のことで
あり、十六世紀には赤嶼、十七世紀以後は赤尾嶼といった名称を用いていた。ただし釣魚嶼という名称は十六世紀
以後まったく変わることなく使われてきた。なお久場島のクバという意味は沖縄ではビロウ樹のことをしめす方言であ
り、この島にビロウが繁茂しているところから久場島と名付けられたものと思われる(注 指南広義に出てくる「姑巴
甚麻」は、等恩納寛×氏によれば、この島を示すものであろうといわれているが、これは慶良間諸島の久場島のこと
であり、まったく別の島である。中山伝信録も姑巴?麻山として、馬歯山「慶良間諸島のこと」の中で触れている)。ま
た久米赤島という名前は、古くから琉球三十六島の一つである(当時は姑米山と呼ばれていた)に近いところから付
けられたものであろう。いずれにせよ久場島、久米赤島といった名称は当時琉球の人々に命名されたものと思われ
る。
 以上によってもあきらかなごとく、明代及び清代の冊封諸使録は、主として航路上の目標としての関心から、尖閣
列島の島×に触れている。またすべての冊封使録が、使録の中の針路の海行日記のところでこれらの島々に触れ
ている事実は、さらにこのことをいっそう容易に説明してくれる。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼といった名前も、おそらくそ
うした航路上の目標を識別する方法として名付けられたものであって、少なくてもこれらの島嶼が自国の領土である
ことを望んで、あるいはそれを意識して、名付けられたものとは思われない。しかしながらよう楊中発氏は、さらに冊
封使録や「指南広義」中の次のような文書を引用して、中国の領土であったことを証する証拠としている。

 さらに鄭汝霖の使録にみられる「赤×は琉球地方山とを界するものなり」といった記述であるが、同様にこの記述か
らも赤嶼が中国と琉球を界する中国国境の島であるとあると解釈することは困難である。むしろこの文言の意味は赤
嶼より以東の島は琉球領であるが赤嶼はいまだ琉球のものでない、と解釈すべきであろう。したがって楊仲撥氏の
主張するごとく「赤嶼はわが方と琉球との接する山」と解釈するのは困難なのである。
 冊封使録は中国人の書いたものであるから、もし赤嶼が中国全土であり、久米島との境をなすものでならば、何人
からも疑われる余地のないように書けたはずである。たとえば赤嶼は中国と琉球との境をなす地方山なりといった表
現を用いることもできたはずである。ところがいかなる冊封使録からも赤嶼が中国領であることを直接的に言及したも
のはない。そればかりでなく楊仲發氏が指摘したような記述すら、現存するもっとも古い二つの冊封使録を除いて、
その後の使録にはまったく見当たらないのである。
 (二)台湾人による尖閣列島の利用 台湾の新聞が第二の事実を強調するのは、冊封使録などの公文書の存
在だけでは国際法上の領有権を確定する理由とならないと考えているからであろう。そこで、これらの事実について
国際法上の検討をおこなう必要があるわけであるが、台湾の新聞では事実関係がかならずしも十分にあきらかにさ
れているわけはないので、補足的な説明を加えておきたいと思う。

a列島周辺での操業の事実 第二次大戦後の台湾の漁民が尖閣列島の領域内で多数操業するようになっていた
ことは事実である。このように列島周辺で台湾人が操業をおこなうようになったのは、戦後アメリカ軍が久場島(注 
一九五五年「昭三十」十月以前は米空軍以後は米海軍によって使用されていた)と大正島(注 一九五六年「昭三
十一」四月十六日以後米海軍の艦砲及び爆撃の射的して使用されてきた)を実弾演習地域」として使用してきたこ
と、また一九五五年(昭和三十)に魚釣島領海内で沖縄船第三清徳丸が国籍不明のジャンク船二隻に襲われ、三
名の乗組員が行方不明になるという事件がおきたなどの理由によって、沖縄漁民が生命や身体の危険を恐れて次
第に列島周辺で操業しなくなくなったためである。そのため一九五〇(昭和二十五)代の末頃から列島周辺で操業す
る台湾漁船の数が急激に増大し最近では年間述べ三〇〇〇隻の台湾漁船が操業するようになっいたといわれる。
これらの台湾漁船はほとんどが台湾省宜蘭蘇澳南方からのもので、約一週間列島周辺で操業している。一九七〇
年七月に琉球政府出入管理庁が現地調査したときには、北小島一〇〇メートルのところに五隻、魚釣島三〇〇メー
トルのところに一隻の台湾漁船が操業していた。その外船名未確認のもの八隻、はるか沖合に数隻の漁船が操業
しているのが目撃された。かれらはまたたんに列島領海内で漁業(注 主としてサバ漁。竹であんだ筏に一人乗って
釣る一本釣り)をおこなっているだけでなく、海鳥の卵を採取したり、飲料水の補給、休養、水浴などの目的でしばし
ば列島に上陸してた(注 上陸する島及び上陸する地点は、主として、水浴、休養,飲料水の補給を目的として魚釣り
島の北岸と南岸、カツオ鳥の卵を採取するために北小島の南端、飲料水の補給などのため南小島の北岸である)。
 ところで基隆を漁港とした漁船の操業は、一九一九年(大正八)の日本水路誌によれば「毎年五月から八月の期
間基隆港より発動機艇をもって此島附近に鰹漁に来るものもあるも、多くは早朝来って夕刻には出航帰航するを常と
す」とあり、また一九四一年(昭和十六)の水路誌にも同様の記述があるところをみると、大正年間以後からおこなわ
われていたことが分かる。ただし当時列島周辺にきていた漁船及び漁民の多くは、日本ほんどから台湾に渡ってき
たものが主であった。また雇われて漁業に従事していた台湾人も法的には日本国籍を有する者として従事していた
にすぎない。他方日清戦争の結果台湾が日本に割譲された一八九五年(明治二十八)以前に台湾漁民が列島水城
で操業していたという事実はない。したがって台湾人自身による列島周辺での操業は、あくまでも戦後のことであ
る。(注=一九五〇年(昭二五)代の前半までは与那国の島民などがカツオ漁や海鳥卵の採取、クバの葉の採取に
きていたようである)。
 いずれにせよ台湾漁民による戦後不法操業は、純粋に民間人によるものであり、その行為が慣行的になっていた
からといって、国際法上領有権を取得しうる効果を生ぜしめるものではない(注 もっとも台湾漁民が、尖閣列島を日
本の領土あると知り、かつ列島周辺での操業が不法行為であることを認識して、操業をおこなっていたことについて
は、かなり疑問がある。多くのものは単純に無人島であるから、自由に操業できると考えていたようである)。

b南小島における沈船解体工事 一九六八年(昭和四十三)八月十二日、八重山警察署の渡慶三警部補外二名
の警官、琉球政府出入管理庁の城間祥文、オブザーバーとして同行したアメリカ民政府渉外局次長ロナルド・A・ゲイ
ダック、公安局の大田氏の計六名が尖閣列島の現場調査をおこなったとき、南小島の波打ち際から七〇メートル位
離れた岩かげに約十坪ほどのテント小屋一棟、その岩の後方の同じ位離れたやはり岩かげに約十坪ほどのテント
小屋二棟を設営、さらに浜辺に起重機二機を設置、三名のサルページ会社の従業員を含む四十五名の台湾人労働
者が、パナマ船の解体作業にあたっていた。調査団は、不法上陸者の住所、氏名、年令などを取調べるとともに、同
社従業員から事情聴取したが、その結果、このスクラップ作業はヤンツ製鉄会社(Yung Tzu Steel 
Manufacturing Co.)がパナマのエムプレサ・ナビエラ・リベルタット社(Empresa Naviera Libertad Co.)との売買
契約にもとづいて買受けた一九四三年(昭和十八)のカナディアン・リバティー型貨物船(一万トン)シルバー・ピーク
号の解体を、台湾のサルベージ会社興南工程所に依頼、同社は一九六八年(昭和四十三)六月頃から、南小島で
沈船解体作業をおこなってきたことが判明した。南小島に上陸していた同社の責任者は、国府逓信省の解体免許証
(一九六八年「昭四十三」三月十二日CHIAO―HANG5703-0431)、リベルタッド社とヤンツ者との英文売買契約書
(一九六七年「昭四二」十月に二十四日)基隆港務局長発給の解体許可証(一九六八年「昭和四三」三月三十日)
及び台湾守備隊本部の出国許可証を所持していたが、入城に必要な旅券及び高等弁務官の入城許可証を所持し
ていなかった。そこで出入管理庁の係官らは、同社の責任者にこれら労働者の同島よりの退去と、入場手続の申請
をおこなうよう勧告した。
 次いで八月二十四日、出入管理庁及び八重山警察署の六名の係官が、再び南小島に対し現場調査をおこなった
ところ、まだ二十名の労働者が残留していたので、再度退去を勧告した。一方現場にいた興南工程所の責任者は
「この島は無人島だから、パスポートは不用だと台湾政府の人々に言われ手続きをしなかったが、注意をうけてその
必要を知ったので、来年四月頃来るときには、パスポートをもってくる」と申立てた。台湾人労者らの南小島への入城
手続は、その後直ちにおこなわれ、その結果八月三十日五十名の労働者と船舶三隻(M/sTAYA;;Seng#2;Fu 
Yung)の入城が高等弁務官によって許可(HCIS 91203)され、その旨在台アメリカ大使館を通じて電話で連絡され
た。ついで翌年四月二十一日、七十八名が追加修正のかたちでさらに入城を認められた。これら台湾人労働者に対
する入城許可はいずれも一九六八(昭四三)年八月一日から一九六九年十月三十一までの期限とされた。(この許
可期限は基隆港務局長の発給した解体許可証の作業期限と一致している)ところで基隆港務局長の発給した解体
許可証は解体現場をたんに緯度及び経度で示しているにすぎないが、解体許可証は作業現場を基隆外海とし、しか
も上述したごとく作業の期限を付している。また労働者らが台湾守備隊本部発給の出国許可証を所持していること
から、少なくとも国府は南小島を自国領として扱っていなかったことが推測される。
 すでに述べたごとく南小島における作業は、その後高等弁務官によって入城を許可され、しかも作業の合法性を遡
及して認められた。したがって南小島での作業(一部は魚釣島でも行なわれた)に関連して、台湾人労働者が設営し
た若干の設備もまた、高等弁務官の入城許可にもとづいて認められたものであって、こうした設備の存在を理由に自
国の領有権を主張することはできない。

c久馬島における沈船解体工事 一九六八年(昭和四十三)三月の台風で座礁し、風波で久場島海岸に打ち上げ
られた国府船籍の八〇〇トン中型貨物船海生二号(HAISENG No.2)の解体作業のために、十四名の台湾人労働
者が同島に上陸し作業をおこなっていた。この事実は一九七〇年七月十一日出入管理庁の係官らが、不法入域者
取締に関する警告板設置のために同島に主張した際に確認された。これら労働者は南小島の場合と同様、琉球列
島へ入城するために必要な旅券及び高等弁務官の入城許可証を所持していなかった。なお同島北岸三〇〇メート
ルのところにスクラップ運搬船大通号(注 三八〇トン・船長外十四名の乗組員)が停泊していた。係官ら同船を臨検
調査したところ、一九七〇年七月一日に一度来たが、台風のため四名の作業員を残して基隆に引返し、次いで七月
七日再び基隆を出航、九日に久場島に到着したことが分かった。なお同船は正式の出航許可をえているが、その許
可証は目的地を無人島として、国名、地名をまったく記入せず、漠然と取り扱っていた。なお労働者からは久場島に
作業の小屋を仮設し、相当量の食料、飲料水(注 同島にはまったく水がない)燃料、寝具などを容易、また鋼鉄製
のケーブル施設をほどこしていた。(注 作業はカーバイトで船体を切断、竹の×で少量ずつ運搬船に運ぶといった
方法をとっていた)。
 これらの不法上陸者及び大通号の乗組員に対しては、ただちに退去を勧告したが、解体作業の責任者は「座礁船
が台湾船であり、この島が無人島であるので、許可を要しない、と思っていた」と申し立てていた。
 ところで国府当局の発給した出航許可証が目的地を無人島として、国名、地名を記入していなかったことは、国府
自身が久場島を単純に無人島と考えていたからであって、少なくとも自国の領土であると意識していなかったといえ
よう。いずれにせよ南小島の場合も久場島の場合も、米民政府及び琉球政府によって台湾人らの不法行為の指摘
と、退去勧告などの取締り措置が効果的になされているので、これらの事実を理由として、領有権を主張することは
問題とならない。
 次に尖閣列島に国府の船舶が避難したことがあるという事実は国際上一般に緊急入城として、領土権と関係なく
認められているものであり、これも問題とならない。ただ台湾省
の水産試験所の船舶による調査は公のものであるから、もしもこれが事実であるならば、国府が領有権を主張する
場合の一つの証拠となりうるが、この証拠だけではわが国が列島に対しておこなってきた実効的支配と比べたら、ま
ったく問題にならないと思う。
 (三)尖閣列島の大陸ダナ一部論 
 第三の根拠にもとづく主張は、二つの効果を目的としているように思われる。すなわちその一つは、尖閣列島はい
ずれも大陸ダナの一部分にすぎないから、これにもとずいて大陸ダナの権利を主張すべきでないとする論理であり、
これは八月二十一日の大陸ダナ条約批准に際して、国府が同条約第六条第一項及び第二項に付した留保に対す
る立法院での、同院外交委員会のメンバーによる補充説明においてなされた(注 留保の内容及び立法院での補充
説明では、海面に突出した「礁×」あるいは「礁石」「小礁」といった言葉を用いており、尖閣列島に明示的に言及して
いるわけでない。しかしながらこれが同列島を意味するものであることは、九月二十五日の立法院での汝剣虹外交
部長代理の答弁からあきらかである。なお九月二十六日中央日報を参照されたい)。
 第二は尖閣列島を大陸ダナの一部分であると解釈することによって、同列島を国際上の島×とみなさず、そしてそ
うであれば国際上の先占にもとづく領域収得に必要な実効的支配も免除される論理である(注 大陸ダナ条約第二
条第三項は、大陸ダナ沿岸国は、この大陸ダナに対して実効的なあるいは観念的な先占または明示の宣言をおこ
なっていなくとも、当該大陸ダナに対する主権を排除されるものではないと規定している)。
 しかしながら、上述した理由及び論理にもとづく領有権主張は、国府が一般国際法及び大陸ダナ条約における大
陸ダナ定義を、正当に解釈していないところから生じたものである。こうした主張はまた、沿岸国の大陸ダナに対する
権利と領域主張とを同一視しているところにある。まず国際法における大陸ダナの定義であるが、今日すでに一般国
際法ともなっている大陸ダナ条約第一条a項は、大陸ダナを定義して、大陸ダナとは、海岸に隣接しているが、領海
の外にある海底の区域の海床及び地下であって上部水域の水深が二〇〇メートルまでのもの,またその限度をこえ
る場合には上部水域の水深が海底の区域の天然資源の開発を可能とするところまでのもの、としている。
 この定義によってもあきらかなごとく、大陸ダナとは、あくまでも海底の海床であり地下であり、同様に上部水域の
水深二〇〇メートル云々といっているのも、少なくとも大陸ダナの上に一定の上部水域が存在することを前提として
いる。いいかえるならば、大陸ダナというかぎり海面下にある地下であり、上部水域のない、海面に突出する部分で
ないのである。さらに「領海の外」と言う文言は、領海の存在を前提としてはじめて意味をもつものである。そうして国
際法上に領海を有するのは、特定の国家の領域主権の下にある陸地及び国際法上の島嶼である。したがって問題
は、尖閣列島が国際法上の島嶼であるか否かであって、海面上に突出している礁嶼とか小礁といった非法律的概
念でない。
 ところで一般に国際法上の島嶼とは、水に囲まれた自然に形成された陸の地域で、高潮時において、水面上にあ
るものとされているが、尖閣列島では、これらの要件を完全に満たした交際法上の島嶼である。すなわち尖閣列島
八島のうち魚釣島、久場島、南小島、北小島はいずれも高潮時海抜一〇〇メートルをこえており、とくに列島中最大
の島である魚釣島は海抜三六二メートルに達している(注 久場島一一七、南小島一二九、北小島一四九メートル)
大正島も八四メートルの海抜を有する。これらの島嶼に比べて沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の海抜はかなり低いがそ
れでも国際法上の島嶼である(注 沖の北岩二四メートル、沖の南岩五メートル、飛瀬三・四メートル)。
 このようにみてくると、尖閣列島が国際法上の島嶼であることを無視して大陸棚の一部分であるとみなし、大陸ダ
ナ条約第二条三項を援用して,列島に対する同国の主権を主張することは認められないといえよう。




        あ と が き 
先占にもとづいて無主地に対し国家が領有剣原を収得するためには,今日の国際法の下では、等該地域に対する
国家の実効的支配が必要であり、こうした支配をおよぼさないで、たんに公文書の存在を指摘して、自国が発見した
とか、自国の領土であることを記述した部分があるいったことだけでは不十分である。したがって冊封使録などの公
文書を理由として,台湾の新聞などが、尖閣列島に対する国府領有の根拠とすることはできない。一方上述したごと
く戦後における台湾人の列島の利用及び南小島などにおける若干の施設の構築なども、国際法における実効的支
配といったものではなく、結局戦前戦後を通じて、国府を含めた、中国が尖閣列島に実効的支配を及ぼしてきたこと
はなかったといいうるし、他方尖閣列島を大陸だなの一部分であるとみなして、自国の主権が列島に及ぶといった台
湾の新聞の主権自身が、結局のところ同国による列島に対する実効的支配が存在していなかったことを認めている
のに等しいのである。なお台湾の新聞などには,この他若干の証拠(注 たとえば九月二十一日中央日報での戦前
日本が魚釣台列島を台北州の管轄に帰するとした主張する証拠、また八月十三日大華晩報の,極東交際軍事裁判
でも問題となった田中メモランダムに列島が国府に属するとの声明があるとの主張など)を指摘しているが,現在の
ところ台湾の新聞なども、これらの証拠の具体的な部分を示していないので、本稿ではふれることができなかった。
いずれこうした証拠の具体的な内容が明らかになり次第、稿をあらためたいと思う。

                       【国士舘大学専任講師】

冊封使(さっぽうし)琉球王国が即位のとき、王冠を授けるために中国皇帝が派遣した使者。正副二使のほか数百
の従者が従い、半年以上も沖縄に滞在した。冊封使は第九代王国・察度(さっと)の代に始まり、最後の国王・尚泰
にいたるまで五百年間に二十三回派遣された。冊封使録は、中国皇帝への復命書で、陳侃「使琉球録」鄭汝霖「使
琉球記」夏子陽「使琉球録」その他がある。以下年表参照。
 なお、進貢船のコースは次表のとおり。


















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