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尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍33」



時事問題解説NO.95
尖閣列島と竹島


 中国・韓国との領土問題

上地龍典

        目  次

概  要 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥9

第1章 尖閣列島問題の背景‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥15
 1 降って沸いた侵犯事件‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥15
   漁船に追われた巡視船/寝耳に水・あわてた日本政府/
   民兵による“決死隊”だった。
 2 尖閣列島のあらまし‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥23
    黒潮の中のトンガリ島/5つの島と3つの岩礁/日本の実効的支配
 3 日中平和友好条約と両国の姿勢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥32
   実質上は「尖閣タナ上げ」/台湾問題との関連/引っかかる
   日韓大陸だな協定

第2章 尖閣列島の歴史‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥41
 1 明代から日清講和まで‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥41
    日中貿易航路の要所/琉球島民が付けた島名/「冊封使録」に
    記された島々/明治28年に沖縄県編入/日清条約の領土割譲
 2 列島の“黄金の日々”‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥53
    民間人の手で本格開発/日本領を認めた感謝状/政府・県・学界も調査
    活動/米軍政下で射爆場に
 3 火をつけた海底油田の発見‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65
    エカフェ調査で脚光あびる/台湾の水兵が魚釣り島に上陸/5つの
    島に「領域表示板」
 4 日・台・中3つともえの論争‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥73
    中国が領有権主張/沖縄返還と米国の立場/日中共同声明後は
   “タナ上げ”

第3章 日中の主張と論争点‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥83
 1 日本の立場と主張‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥83
    日本政府の基本姿勢/自民党の“尖閣論争”/野党見解とその姿勢
 2 中国側の主張と姿勢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥91
    中国外交部の領有権主張/中国側の領有論拠/崩れ去った論拠/硬軟
    使い分ける国境政策

第4章 尖閣列島の今後の課題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥103
 1 周辺海底の石油資源‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥103
    諸説まちまちの石油埋蔵量/日・中・米の共同開発へ/
    ひしめく鉱区権申請
 2 警備の強化と安全操業‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥112
    漁業の安全と避難施設/売られた魚釣島と“決死隊”
    /領海警備体制の強化/真の“実効的支配”を

第5章「竹島」をめぐる日韓紛争‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥121
 1 現状と両国の主張‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥121
    韓国軍艦の退去命令/日比谷公園ほどのミニ群島/明治38年の
    島根県編入/日韓両国の主張
 2 竹島の沿革‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥134
    欝陵島との蜜接な関係/複雑な島名の混乱/銃撃された巡視船
 3 竹島の問題点と政府の対応‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥142
    解決の方策はあるか/ピストルで守られた日本


用語解説‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥151
参考文献‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥158













 概  要


 さまざまな曲折のあと、日中平和友好条約が、53年(1978)8月、6
年越しにようやく実を結んだとき、我が国はこぞって、これを歓迎した。確かに、同条約によって、両国の友国関係
が、新しい局面を迎えた意義は大きい。しかしながら、これで、日中間のもろもろの懸案が、一挙に解決されるわけ
のものでもなく、手放しで喜んでばかりはおられない。

 その一つが、尖閣列島に対する中国の領有権主張である。条約交渉の大詰めで、中国のケ副主席は「再びあの
ような(尖閣領海への侵犯)事件は起こさない」と約束した。ただし、問題なのは、尖閣列島への領有権主張を「撤回
する」とは、決して言っていないことである。これだけの発言で、尖閣問題に決着がついたとするのは、あまりに早計
に過ぎよう。ソ連やベトナムと戦火を交えるほど、激しい国境紛争を続けている中国が、これまで執ように主張してき
た尖閣の領有権を、あつさり放棄することは、他の係争に与える大きな失点を考えても、まずありえないことだ。日中
条約締結の急場しのぎに、多少の譲歩はしても、いずれまた、巻き返しをはかる、と見るべきだろう。

 さらにわが国には、ソ連に占領された北方領土のほか、韓国に不法占拠されたままの、竹島問題の解決が残され
ている。53年5月、竹島の近海で操業中の日本魚船が、韓国艦艇に退去を命じられる事件が起こった。が、日本政
府は、わが国の領海内であったにもかかわらず、1隻の巡視船すら出動させなかったという。武力を持たない日本
が、全方位平和外交という基本方針のもとで、領土紛争に対処するには、おのずから限界がある。とはいえ、紛争を
回避するあまり、相手側に先手をとられ、あわてふためいているばかりでは、不甲斐ない。石油資源の宝庫とされる
尖閣列島を、いかなることがあっても、中国による“第二の竹島”にしてはなるまい。

 もともと尖閣列島(総面積6.3平方キロ)は、明治28年(1895)明
治政府の閣議決定に基づき、沖縄県の一部として我が国の領土に編入された「日本固有の領土」である。それまで
サンゴ礁に囲まれた南海の無人島に過ぎなかったが、明治30年代には、日本人労務者が多数移住、カツオ節工
場、海鳥のハク製作業所、海鳥ふんの肥料製造所などが経営され、第2次大戦直前の昭和15年(1940)まで、島
民が居住していた。戦後、沖縄返還までは、在沖縄米軍が射爆場として使用、返還後も、日米安保条約、地位協定
によって、日本政府が射爆場として引き続き提供、一貫して日本の実効的支配のもとに現在にいたっている。

 漁民以外にはほとんど知られず、昭和40年代の初めまで何の関心もひかなかったこの小群島が、一躍クローズア
ップされたのは、同海域の資源調査に当たったエカフェ(国連アジア極東経済委員会)が43年(1968)に発表した
報告であった。「世界で最も有望な石油・天然ガスが、同列島の大陸だなに埋蔵されている可能性がある」というニ
ュースは、国際的な注目をあびた。この報告があってから、にわかに台湾、中国が同列島の領有権を主張しはじめ
たのである。

 台湾政府は昭和44年(1969)、尖閣列島の海底資源は、大陸だなの連なる自国に主権がある、と声明、その後
同海域の石油探査権を米国のガルフ社に与えたり、同列島の主島・魚釣島に台湾国旗を立てるなど、積極的な攻
勢をかけてきた。一方、中国は沖縄返還を前に、「同列島の日本領有は中国の領土侵犯である」賭して中国新華社
通信が報道したあと、46年(1971)12月には、中国外交部が「同列島は台湾の付属島嶼である」と公式に中国の
領土権を主張、日・中・台三ヶ国による三つどもえの領土論争が展開された。

 一時は、国連を舞台に、日中間の激しい夏至威やりとりもあったが、47年(1972)の日中国交正常化交渉では、
両国の暗黙の了解で、同列島の帰属問題には触れなかった。その後は、日中条約締結促進の動きとあいまって、
中国側からのアピールは影をひそめ、53年4月、中国漁船による侵犯事件が起こるまでは、同列島をめぐるトラブル
は、全くなかった。

 一方、日本海のほぼ中心にある竹島(0,23平方キロ)は、江戸時代から日本人が経営してきた歴史的事実があ
り、明治38年(1905)に、正式に島根県に編入されている。にもかかわらず、韓国は、戦後独立して間もない日本
に対して、昭和29年(1954)に、竹島の領有権を主張し、同等を占拠するという不法手段に出た。その後、たびた
び日本側が抗議したのもかかわらず、同島に灯台、無線アンテナ、小屋、機銃台座を建設して、武装警備隊を常駐
させ、日本巡視船に3回にわたり銃撃を加えるなど、武力による同島支配を続けている。

 韓国とわが国は、懸案の日韓大陸だな協定による東シナ海の共同開発に、53年中には着手する見通しがつき、
協力体制がとられているが、この竹島問題については、一向に話し合いの場がもたれていない。韓国は、日本が提
案した国際司法裁判所へ付託申し入れも拒否しているうえ、40年(1965)の、日韓正常化の際、両国が合意した
「紛争解決のための交換公文」に基づく交渉も拒否し続けている。日本政府は、あくまで「外交ルートによる平和的解
決をめざす」としているが、現在の韓国政府の態度を見る限り、前途は明るいとはいえまい。


第一章 尖閣列島問題の背景

1  降ってわいた侵犯事件

漁船に追われた巡視船
 例えてみれば、お巡りさんが、“泥棒”に追っかけられたような、おかしな具合だった。追ったのが100トンそこそこ
の中国漁船、追われたのが350トン、乗組員32名の海上保安巡視船「やえやま」。昭和53年4月14日、わが尖閣
列島海内での出来ごとであった。

 その時の模様を、地元沖縄タイムスがこう報じている。「中国漁船は、魚釣島から久場島へ移動、午後2時ごろ『■
漁290』を警告したとき、脚付きの自動小銃を船首にすえ、若い男が、10メートル離れた『やえやま』へ向けた。『や
えやま』は速度を上げて離れたが、銃を向けたまま、約30分間追尾された」(4月16日夕刊)。但し、わが巡視船の
名誉のために断っておくが、「やえやま」は決して逃げたのではなかった。「こと外交問題でもあり、現地機関は、相
手国船舶を極力刺激せぬよう、慎重に当たれ」と言う、日本政府の意を体した海上保安庁長官指示を、忠実に守っ
たまでだ。第11菅区海上保安部(那覇)所属の「やえやま」が、尖閣列島付近の領海内を警戒中、突然、100隻に
余る中国漁船をレーダーで補足したのは、その2日前、4月12日午前7時30分である。1部はすでに、魚釣島北西
方領海内に侵入していた。緊急第1報を本部に入れたあと、「やえやま」は、この降ってわいたナゾの大漁船団のま
っただ中で、文字通り孤軍奮闘していた。

 中国漁船団は、総数140隻を数えたが、領海侵犯への再三の警告、退去命令もきかばこそ、13日には、最大40隻
が領海内に侵入、「此処は中国領土である」と中国語で書いた看板を掲げる始末。驚いたことに、1部の漁船は、自
動小銃をちらつかせる不穏の動きさえみせた。知らせを受けた海上保安庁は、第1管区の巡視船「のぼる」「おきな
わ」を現場に急行させる一方、事の重大性に対処して、鹿児島・門司・舞鶴・神戸・横浜の各管区から10隻の巡視
船、ヘリコプター2機を含む航空機7機を発進させるという、未曽有の総動員態勢をとった。


寝耳に水・あわてた日本政府
 領海侵犯の第1報が入ったとき、政府・自民党は、電撃的ショックを受けた。日中平和友好条約交渉再開をめぐっ
て、カンカンガクガクの議論を展開していた自民党内も、福田首相の説得工作で、ようやく治まりかけた矢先のハプニ
ングである。報告を受けた時、福田首相は「信じられない」という顔つきで、暫くキョトンとしていたそうだ。

 台湾漁船による小規模な領海侵犯は、これまでもたびたびあったが、中国籍の船が、尖閣領海内へ侵入したのは
全く初めてのケース。しかも、140隻という常識を超えた大群団である。報告では漁船にあるまじく、機銃も積み込
み、指揮船らしい船の指示で、執ように侵犯を繰り返しているという。故意なのか、偶然なのか、中国側は沈黙した
ままでさっぱり要領を得ない。とりあえず政府は、13日に在日中国大使館へ「遺憾」の意を伝え、翌14日には、在中
国日本大使館をつうじて、正式に中国政府「遺憾」を表明するとともに、漁船の即時退去、具体的な調査を求めた。

 この突発事件で、収まりかけていた自民党内の日中条約反対派は、それ見たことか、と勢いづき、「北方領土、竹
島に続いて尖閣まで占領されていいのか」と激しく政府にゆさぶりをかけた。「苦心してやっとこここまで党内調整をこ
ぎつけたのに・・・・、中国の真意はさっぱり分らん」と、福田首相は嘆いたが、日中条約問題を含めた日中関係への
影響を配慮して、あたう限り事件を円満に解決したい、との姿勢を打つ出し、中国の真意をはかりかねながらも、「日
中条約締結の基本路線は変更しない」ことを再確認した。


 民兵による“決死隊”だった 
 15日夕刻になって、中国の耿副首相が、訪中していた田英夫社民連代表に「侵犯は偶然の出来事だった」と語っ
たことから、非公式な表明ではあったが、日本側の緊張は解けた。ただし、言葉通りに「偶然」を信じるわけにはいか
なかつた。なにしろ、上海(700キロ)を中心に、遠くは天津(1,100キロ)あたりの船籍をもつ140隻の武装船団
が、1週間にわたって計画的な侵犯を繰り返したのである。後部甲板の左右と船首に、13ミリ機銃を備えた漁船に
は、16ミリカメラを構えた報道員か、政治部員らしい姿も目撃された。中国政府がいかに“偶発”を強調しても、素直
に納得できる状況ではなかったのである。

 果たせるかな、この事件が、実は上海市革命委員会の指命による“決死隊”であることが4月25日、上海市の西
蔵路に「同済大学新東方紅」の署名で張り出された壁新聞によって明らかにされた。台湾筋からというこの情報によ
ると、侵犯漁船団には「血を持って尖閣列島を日本の侵略から守れ」とする約500人の海軍正規兵が乗り込み、出
発前の決起大会では、「武力衝突も辞すな」とアジ演説で気勢を盛り上げたという。この船団が、現場に到着したあ
と突然、予定を変更して退去したのは、「中央の命令」だったということだが、引き返すか引き返さざるべきか、船団
は上海の指令本部とやり合い、大いに混乱を生じたようだ。この間の無線暗号は、日本巡視船も傍受している。18
日付きの香港紙はいち早く「華国鋒主席に反発する地方の扇動者の反乱だろう」と報道したが、壁新聞は、これを裏
付けたわけだ。

 侵犯漁船の首謀者4人が北京当局によって逮捕されたと言う報道もあり、このことから考えると、中国政府の意に
反した“偶発事件”といえなくもない。しかし、これだけの反乱船団が、現場に到着するまで、政府軍は一体何をして
いたか、となるとやはり、“偶発事件”として片付けられない疑問が残る。



         2  尖閣列島のあらまし


 黒潮のトンガリ島
 新婚旅行の人気コース・石垣島から、東シナ海を北北西に進路をとると、約175キロの海上に、トンガリ帽子にも似
た知小さな島影が見える。尖閣列島の中心「魚釣島」である。この魚釣島を核に、東経123度28分から124度34
分。北緯25度44分から25度56分の間に点在する8つの島嶼を、総称して「尖閣列島」と呼ぶ。いずれも無人島で
ある。沖縄本島(名覇市)の南西約420キロ、台湾(基隆市)からは北東へ約190キロ、中国(福州)からだと東へ約
420キロの地点にある。尖閣列島の名称は、英文航路図の[Pinnacle ls](小尖塔・頂点)からきたもの、とされている
が、近年では、外国地図にも[SENKAKUGUNTO](尖閣群島)の名称で記されている。また台湾、中国では「釣魚台列
嶼」「釣魚島諸島」と呼んでいる。

 列島は、魚釣島、久場島(別名黄尾嶼)、大正島(別名赤尾嶼)、北小島、南小島の5つの島々と、沖の南岩、飛
瀬の3岩礁から成るが、これらを合わせても面積は約6.3平方キロ、山中湖の広さしかならない。地質的には第3紀
層に属するが、各島とも鋭い錐状の火山島嶼で、それぞれ隆起した珊瑚礁に囲まれているのが特徴だ。ちょうど、
「黒潮」のどまん中にあり、その影響を受けて、付近は常に波が荒く、航路の難所となっている。とくに、10月から4月
までは、偏北風が吹き荒れるため、漁船も近寄らないが、5月から9月の間は、偏南風に転じ、海上はやや平穏にな
るので、豊富な魚群を追って、沖縄の宮古、八重山群島、あるいは台湾北部の漁船が集まってくる。


  5つの島と3つの岩礁
  列島の島々を簡単に説明してみよう。
〔魚釣島〕  東西に約3キロ、南北に約1キロ。列島の中で最大の面積は(3.6平方キロ)をもち、上空からみると海
鼠(なまこ)に似ている。全島が暗緑色のシュロ樹に覆われ、島の中央を東西に山陵が走る。両端と中央に峰がある
が、西峰が一番高く362メートル(東峰は350メートル)中央峰は刃を建てたような尖出岩でできている。船が接岸で
きる適地はないが、西側にわずかの砂浜があり、小船なら着けられる。この付近には、戦前のカツオ節工場跡やセメ
ント水槽などが残っている。島の北東と北西部には小川が流れ水量も豊富なため、時折漁船が立ち寄る。又島には
海鳥が多く、2.5メートル級のヘビやマツ虫、ホタルも多い。

〔北小島・南小島〕  魚釣島の東約5キロにあり、遠くからは一島に見えるが、幅200メートルの浅水道を隔て、南
北に分かれている。

 南小島(0.4平方キロ)北小島(0.3平方キロ)とも岩場から成り、ほとんど樹木はない。南小島の東端にある尖
頭岩は、海中から直立しているように見え、航路の好目標にされているが、この島には岩場から湧き出る清水があ
り、北西端にはかつての海鳥の剥製用小屋跡があるが、いまも両島だけに群棲するアジサシが数万羽いる。

〔久場島〕  列島の北東隅に孤立した円形の火山島。黄尾嶼とも呼ばれ、魚釣島に次いで大きい面積(約1平方キ
ロ)をもつ。中央島頂は117メートル。山頂、山腹ともシュロ樹が密生しているが、水はない。西岸に人工の船着場が
あるものの、風波がある時は着岸は無理である。海岸線は約100メートルのきり立った岩石で、おびただしい海鳥の
巣窟となっている。山猫、トカゲがいるがヘビはいない。現在、米軍の射爆場となっている。

〔大正島〕  赤尾嶼とも呼ぶ。石垣島北東約130キロにある四面垂直の溶岩島。(面積0.15平方キロ)北側に観
音像に似た尖岩があり、和船が帆走しているように見える。島の上部は平坦な床状で、樹木はなく、海鳥が群棲し
ている。

〔3つの岩礁〕  「沖の北岩」久場島南西約11キロにある24メートルの岩礁。「沖の南岩」北岩の南約3キロにある
高さ5メートルの岩礁。「飛瀬」魚釣島の南東約1.6キロにある3メートルほどの岩礁。


  日本の実効的支配
 日本政府は、明治28年(1895)1月、この尖閣列島を、沖縄県に所属するものとして、各島に標杭を建てることを
閣議で決定、その翌年には、八重山郡の一部として編入した。編入後、政府は魚釣島など4島を民間人に貸与し、
カツオ節工場などの開拓事業に当たらせたが、昭和7年(1932)これら4島は有償で払い下げられた。その後、同
列島は第2次大戦の沖縄返還まで、在沖縄米軍の射爆場として使用されたが、日米安保条約および地位協定によ
って、日本政府が引き続き提供、一貫して日本政府が実効的な支配を行ってきた。

 同列島が国際的に注目されたのは、エカフェ(国連アジア極東経済委員会)が、昭和43年(1968)「尖閣列島周
辺の海底(大陸だな)に、莫大な石油資源が埋蔵されている可能性がある」との調査報告書を出してからである。ま
ず最初、45年(1970)に台湾(国府)が尖閣列島の領有権を主張し、次いで中国も翌46年(1971)12月に、「中
国の領土だ」と名乗りをあげた。暦史的にみて同列島は、明時代から中国の台湾に付属していた、というのが、その
主張であった。

 これに対して我が国は、「歴史的にも中国領土である証拠はない。日本には、同列島に対する国際法上の『先占
権』があり、台湾・中国には領有権を主張する根拠がない」として反論、尖閣列島領海への外国船侵犯を排除してき
た。日本が、国際法上の権利としている「先占権」とは、「帰属のはっきりしていない地域(無主地)については、先に
支配した国に領有権がある」という国際法の取り決めである。イギリス、フランスが、太平洋の島々を領有しているの
も、大部分はこの取り決めによったものである。尖閣列島については、明治政府が明治17年以来、数回の調査を行
い、同列島が、いかなる国の領土にも所属していないことを確認している。




   3  日中平和友好条約と両国の姿勢

 実質上は「尖閣タナ上げ」
 6年越しの懸案であった日中平和友好条約は、53年(1978)8月、日本側園田外相、中国外相によって、北京で
調印された。自民党の対中国慎重派は、条約締結に先立って「領海侵犯事件が起こったのは、日中正常化の際、
尖閣問題をタナ上げしたからだ」として、条約交渉ではまず、尖閣の日本帰属を認めさせるべきだ、と政府へ強硬な
申し入れを行っていた。園田外相は、ケ副主席との会談で、日本側の立場を説明、「中国政府は、再びあのような事
件(4月の侵犯)を起こさない」との約束をとりつけた。

 しかし、この約束は何も目新しいものでなく、事件後に耿副主相、廖中日友好協会会長が、すでに言明していたも
のだった。結局、中国側は、事件再発を防ぐとの譲歩はしたものの、領有権については、一切言質を与えず、実質
上、尖閣問題を“タナ上げ”する形で、政治決着をはかったのである。中国側は当初「尖閣問題には触れない」との態
度だったが、福田首相の指示をうけた日本側の強い姿勢を読み取り、条約の円満妥結をはかるためには、何らかの
形で、尖閣をとりあげざるを得ないと判断、ケ発言の内容となったものである。その変わり身の早さには、むしろ日本
側が驚かされた。

 つまり中国側としては、ソ連をはじめ、ベトナムとの国境紛争、華僑やカンボジア問題をめぐる対立の深刻化など、
自国をとり巻く国際情勢が極めて厳しいことから、尖閣問題で今日本を硬化させるより、「反覇権」の趣旨を盛り込ん
だ日中平和条約を、早急に締結し、日中関係をより緊密化したことの方が、むしろ将来に向かって得策である、との
考え方をとったものといえよう。


 台湾問題との関連
 「尖閣問題より、日中条約が先決」との中国政府の姿勢は、耿副首相が、社民連の田英夫代表に語った言葉から
も読み取れた。

 耿副首相は、中国漁船の領海侵犯がまったく偶然の出来事であることを述べたあと、「こんな小さな島より、あの辺
では『台湾』という大きな島さえ解決していない。中国はこの事(尖閣列島)で、やっかいな問題を引き起こすつもりは
ない」と強調した。

 中国は常に、「台湾は中国領土の一部であり、尖閣列島は台湾に属する領土だから、同列島は中国領土である」
との立場で、尖閣の領有権を主張してきた。ところが、この台湾そのものの帰属が、まだ日中両国の間では、はっき
りされていないのである。日中共同声明で日本は、「台湾が中国領土の不可分の一部である、との立場を理解し、
尊重する」との表現を用いたが、それだけだは、台湾が中国の領土である、と認めたことにはなっていないのである。
つまり、中国が尖閣列島の領有権を日本に認めさせるためには、その前提として、台湾の中国帰属をまず認めさせ
る必要があるわけだ。

 中国は53年(1978)3月の人民全国代表者会議で、“祖国統一”の名のもとに、「台湾解放」に力を入れることを
国家目標の大きな柱に掲げている。事実、中国の伍修権副総参謀長(党中央委員)が、4月28日に明らかにしたと
ころでは、中国は既に、「軍事面の準備、とりわけ制空、制海権の確保と上陸作戦の訓練を重点的に行っている」と
いう。

 一方、蒋経国総統による新体制がスタートした台湾は、1972年(昭和47)から着手している「十大建設」と銘打っ
た、ぼう大な規模の基幹産業建設計画を推進中であるが、これをおびやかす中国の動きにどう対処していくのか注
目されるところである。日本のある軍事専門家は、現在の中国海軍力では、鉄壁の守りを布く台湾の金門海峡防衛
ラインお突破することはまず不可能だ、と観測している。もし、中国が攻撃してきた場合、米、ソいずれかの干渉が予
想されるところだが、米国はすでに「一つの中国」を承認しており、可能性としては、中国と対立を深めているソ連と
台湾の結託が浮上してこよう。
日中条約以後、中国が、台湾武力開放で、尖閣問題をどうからませてくるか、予断は許されない。


 引っかかる日韓大陸だな協定
 東シナ海大陸だなの石油開発をめざした「日韓大陸だな協定」が、尖閣列島の領有権と密接なかかわりをもつこと
はいうまでもない。53年6月、同協定の国内関連法案が成立する直前、中国は日本政府に抗議してきた。「日韓大
陸だな共同開発協定は、中国の主権を侵すもので、不法かつ無効である。という内容であった。これに対し日本側は
「この協定は、日韓両国に関係のある大陸だなに限って合意したもので、中国の主権を侵さない配慮をしている」と
反論した。つまり、日韓共同開発区域の西がわ境界線は、韓中中間線の韓国側に限定しており、さらに、この境界
線は、日中中間線の日本側よりに限定すると二重の手当てを行っているため、中国の国際法上の権利は何ら侵害
するものではない、という説明である。

 日韓大陸だな協定にたあいする中国の抗議は、これまでに2度あったが、日中平和条約の交渉再開へ動き出した
微妙な時期に、強硬な抗議をつきつけたことに、日本政府は、その真意をはかりかねた。この中国側の意図につい
ては、華国鋒主席がそお前月に北朝鮮に訪問していることを考え合わせ、韓国の経済強化につながる大陸だな開
発に、北朝鮮が反対しているのを、中国が支援した、とする見方や、尖閣事件で、日本側の抗議を受け、再発防止
措置をとらざるを得なかった中国として、逆に中国の主権が侵されている問題もあることを、ここであらためて鮮明に
しておき、外交上のバランスをとったもの、とする推測もなされた。

 大陸だな問題では、境界線の画定で、日本側が「中間線論」をとっているのに対し、中国側は「自然延長論」を主
張、意見が対立している。日本としては、中間線画定での話し合いなら、いつでも応じると申し入れているが、中国
は乗ってこない。尖閣の領有権問題ともからむこの意見の対立を、どう調整するかは、日中条約以後の重要課題とし
て残されている。しかし中国は、領有権や境界画定には触れない形で、東シナ海の石油共同開発に強い意欲を示し
ており、尖閣領海外での日中共同開発は、早い時期に実現する可能性が強い。





第2章  尖閣列島の歴史

    1 明代から日清講和まで

 日中貿易航路の要所
 尖閣列島の歴史は、遠く中国の明時代にまでさかのぼる。南洋への門戸であった沖縄、つまり当時の琉球は、十
四世紀の始めにはすでに、中国、東南アジア諸島と交流があった。中国の『恩州府志』(1605)には、1,327年、
流球の宮古船2隻に乗った60余人が、はるかシンガポールの地で、交易していた事実が記録されている。当時の
琉球船は、季節風を利用する航海術を会得していて、東シナ海の破涛を自在に乗り切り、那覇の港は、出船入船で
にぎわった、と伝えられる。

 琉球王朝(中山王)が始めて、明代の中国へ進貢船を派遣したのは、1372年(建徳5)であったが、進貢船破、那
覇から“尖閣列島”を経て、東シナ海を横断、中国の福州に至るコースをとった。一方、明からは、冊封使を琉球へ派
遣する冊封船が、旧暦の5月ころ、南風の季節風に乗ってやってきた。台湾鋪北方の彭佳嶼から、尖閣列島を経て
那覇に入港するのが常であった。琉球と中国との進貢・冊封の関係は、明代から清代の1879年(明治12)まで続
いた。国士舘大の奥原敏雄教授の調べでは、その約500年間に、琉球からの進貢船は、合計241回(明代173
回、清代68回)中国へ渡り、さらに中国からの冊封船は23回来船、これに答礼を行う琉球の謝恩使船も同じく23回
に達した、とされる(論文「明代及び清代における尖閣列島の法的地位」)。

 この中国との航路を軸として、安南、シャム、スマトラ、はてはジャバ、マラッカの地まで航路が開拓され、さまざま
の琉球船が、尖閣列島を目印にして往来していた。つまり、沖縄の人々にとって、尖閣列島は、古くから遠洋航路の
重要な“道しるべ”として大きな役割を果たしてきたわけである。


 琉球島民が付けた島名
 いつの頃からか、沖縄本島の人達は、尖閣列島を「ユクンク・クバジマ」、八重山では「イーグン・クバジマ」と呼んで
いた。「ユクン」あh「魚」を表す方言の転訛、「イーグン」は魚を突き刺す「銛」を表す。このことから“魚のよく釣れる
島”“銛のようにとんがった島”となり、これから「魚釣島」の名が生まれたとされる。魚釣島は、中国読みでは釣魚
嶼、釣魚台となっているが、意味するところは同じである。

 一方「クバジマ」は、クバ(蒲葵)=びろう、が発生したという意味合いから「久場島」(黄尾嶼)を差すものと考えら
れ、この代表的な二つの島の名を合わせて、尖閣列島を総称した「ユクン・クバジマ」「イーグン・クバジマ」の名が生
まれたようだ。
 さらに、赤尾嶼とも呼ばれる大正島は、沖縄名の「アカ」あるいは「アコウ」の当て字、同様に「黄尾嶼」(久場島)
も、八重山での別名「チールージマ」(黄色い島)を当てたものと思われる。

 しかし、これらの島名は、琉球の古い文献にはほとんど見当たらない。わずかに、琉球王朝最後の冊封となった尚
秦王冊封時の記録「続琉球国志略」の項目のうち、1838年(天保9)の冊封使の航海記を引用した中に、はじめて
「久場島」の名が出てくる。後述するように、中国人の「冊封使録」には、かなり古くから尖閣列島の中国読みの島名
が詳しく書かれている。にもかかわらず、琉球の古文書にそれが見当たらないのはなぜだろうか。

 その理由に就いて、琉球大学の喜余場一隆助教授(日本史)は、「全くの無人島で、租税の対象地にならなかった
ため、記録に残されなかった。これに対し、中国の冊封使録は、朝命で派遣されたこと、航海指標の島地であるこ
と、さらに、その報告書を次代の封使に供したことなどを考慮すると、封使録に、これら諸島が明記されていること
は、みしろ当然といえる」と述べている。(論文「尖閣諸島と冊封使録」)


  「冊封使録」に記された島々
 「冊封」というのは、中国の朝廷が、貢ものを献上してきた近隣国の王位継承者に対し、国使を送って「爾を封じて
国王と為す」という勅書を与えた行事のことで、その酷使を「封冊使」または「封使」と称していた。しかし、この冊封が
なければ、国王としての権限がなかったかというと、そうでなく当時はむしろ、近隣の大国が、小国間における“国際
儀礼”的な趣があった。琉球王朝は、明の太祖が元を亡ぼし、天下を統一した1372年から、明朝と朝貢・冊封関係
に入った。冊封の儀式を果たした冊封使たちは、中国に帰国後、その航海途次の情況から、儀式の次第、相手国の
国情に至るまでを、つぶさに記録し、「冊封使録」としてその後の冊封使の指針に供する習わしであった。
 現存する「冊封使録」のなかで、利用度の高い資料とされているのは、明代の1532年に来流した陳保の記録『使
琉球録』とその後200年を経て、清代の徐葆光が記した『中山伝信録』のニ書だといわれる。ただし、これは利用度
が高いということで、必ずしも資料的な信ぴょう性があるというわけではない。この『使琉球録』に、最近になって中国
が、尖閣列島の領有を主張する有力な論拠とされる記述がある。それは次のようなものだ。

 「平嘉山(彭佳島)ヲ過ギ、釣魚嶼(魚釣島)ヲ過ぎ、黄尾嶼(久場島)ヲ過ギ、赤嶼(赤尾嶼・大正島)ヲ過グ、目接
スルニアラズ、一昼夜ニニ三日ノ程ヲ兼ヌ、夷船(琉球船)ハ帆小ニシテ及ブ能ワズ、相失シテ後ニアリ、11日夕、
姑米山(久米島)ヲ見ル、乃チ琉球ニ属スル者ナリ、夷人船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ」この中の「十一日夕、姑米
山を見る、すなわち琉球に続するものなり」という箇所、言葉を変えれば「久米島から琉球領に入った」ともとれる表
現が、問題の部分である。中国側は、このわずかの記述を理由に「だから久米島までの尖閣列島の島々は中国領
土である」と主張している。

  ところが、他の『重編使琉球録』(1561)には、赤尾嶼(大正島)が琉球との境界」と言う記述もあるなど、必ずしも
統一されていない。いずれにしも、これらの記録には、尖閣列島が中国領土である、とは書かれていない。この使禄
に示された島名は、あくまでも航路標識としての意味合いに力点が置かれており、決して領土意識をもって書かれて
はいあないのである。この問題の箇所は、むしろ長い航海の末、ようやく人の住む久米島を見て、やっと琉球に到着
できたんだ、との喜びを表現したものと解すべきだろう。

  明治二十八年に沖縄県編入
 日中航路の要所ではあったものの、尖閣列島は領土的な関心をもってみられたことはなかった。わが国が、この列
島に領土意思をもったのは、廃藩置県で沖縄けんが設定された明治12年(1879)ごろからである。同年に発刊さ
れた「大日本全図」(松井忠兵衛編)には、尖閣列島が日本領土として記されている。「尖閣」の名称は、明治6年(1
873)の海軍水路部編『台湾水路誌』に、南小島を意味する「尖閣島」として用いられていたが、同じく明治19年(1
886)の「水路誌」には、島々を総称した「尖閣群島」の名で記されている。

 沖縄県知事は、政府の命令で魚釣島を調査した大城永保氏の報告を受け、同列島を県の所轄とする国標を建て
たいとして、明治18年(1885)に政府へ上申書を出した。同時に、出雲丸を々列島に派遣、本格的な調査にのり出
している。しかし政府が、慎重を期して許可を延ばしたため、同23年と26年にも、漁業上の取り締まりを理由に、列島
の所轄決定を求める上申を行った。結局、この上申書は翌27年(1894)12月、同列島が無人島であリ、清国(中国)
の支配が及んでいないことを確認したのち、閣議に提出することを決め、明治28年(1895)1月14日、県の要望と通
りに領土編入の閣議決定がなされた。

 沖縄県では直ちに、日本領土を示す標杭を各島に建立し、翌29年(1896)4月、同列島を沖縄県八重山郡に編入
した。さらに35年(1902)11月、石垣島大浜間切登野城村への所属を決め、各島の地番を設定、国有地台帳に登
記した。列島のうち、久米赤島は、面積が小さいこともあって、国有地指定が遅れたが、対象10年(1921)7月、島
名を大正島と改称して登記された。

  日清条約の領土割譲
 明治27年(1894)7月、朝鮮問題にからんで勃発した日清戦争(中国側では甲午戦争)は、翌年3月、日本軍が
澎湖諸島を占領するにおよび、アメリカ政府が仲介に立って、終止符が打たれた。同4月、日本側全権の伊藤博文
(首相)陸奥宗光(外相)と、清国側全権の李鴻章、李経芳は、下関で講和会議を開き、下関条約(馬関条約)を締
結したが、この条約で、清国の台湾ならびに澎湖諸島が日本に割譲されることになる。

 後年、中国は「尖閣列島は台湾の付属島嶼であり、この下関条約によって、日本に奪取された」との論を展開する
が、同条約交渉における領土問題やりとりがどうだったのか、その経過から、事実関係をみてみよう。まず、日本側
が最初にしめした講和条約草案では、領土条項として、(1)遼東半島 (2)台湾全島とその付属諸島 (3)澎湖列
島、すなわち東経119度乃至120度及び北緯23度乃至34度の間にある諸島――の割譲が要求された。この要
求を自前に察知していた清国側は、国内でこれに強く反対する動きもあって、日本に提出した清国側草案には、領
土の割譲は一切含まれていなかった。しかし日本側の強硬な態度を知ると台湾とその付属諸島を除き、澎湖諸島に
就いてのみ、日本案を認めるという修正案を出してきた。ところが日本側は、これをも承服せず、結局、最終的な領土
条項は、遼東方面が若干縮小されただけで、あとは日本の原案通りの割譲が決定され、38年4月17日、両国全権
の調印が行われた。

 この交渉経過で分るように、日本側が要求した清国の領土には、尖閣列島は含まれていない。日本の尖閣列島の
編入の閣議決定がなされたのは、条約調印より3ヶ月前である。すでにわが国領土になっていた同列島の地位は、
この講和条約とは無関係であり、また、条約の交渉を通じて、清国側が尖閣列島に関して問題を提起したことも全く
なかった。

     2  列島の“黄金の日々”

  民間人の手で本格開発
古賀辰四郎氏と尖閣列島の出会いは、同列島が日本領土となる10年前にさかのぼる。1856年(安政元)、福岡に
うまれた彼は、琉球藩が沖縄県になった明治12年、24歳で沖縄に渡った。郷里の名産「矢部茶」販売するのが目
的だった。ところが、ひょんなことから、海辺にころがっている夜光貝、高濯貝の殻が、内地では高級ボタンになること
を知り、貝殻採集業に転向をはかった。

 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治17年(1884)人を派遣して、列島の探検調査に当たらせ、こん
どは、無人島開拓に意欲を燃やす。翌18年、国へ魚釣島など4島の借用願いを出す一方、列島に船を出して、アホ
ウ鳥(信天翁)の羽毛、海産物の採取に乗り出した。しかし、国有地借用の方は、その後二度にわたって申請したに
もかかわらず、同帰属不明尾理由に、認められなかった。政府が列島の領有を決定して、30年間の無料貸与を許
可したのは、約10年後、明治29年(1896)に入ってからのことだった。

 その後、尖閣列島の改革は、古賀氏の情熱と、大規模な資本の投下いよって、飛躍てきな発展をとげる。まず彼
は、開拓明の移住を計画、列島借用の許可が下がった翌30から、毎年、30人、40人と開拓民をおくりこんだ。こし
て最初の4年間に、島に渡った移住者は、136名に達し、そのなかには女性9名も含まれていた。

 古賀氏は、魚釣島と久場島に、家屋や貯水設備、船着場をつくった。明治36年(1903)には、内地から剥製職人
10数名が移住し、海鳥の剥製工場がつくられた。さらに、カツオ節向上、べっ甲、珊瑚の加工場も建設された。こうし
た海産物関連の事業に力を入れる一方、彼は、おびただしい鳥糞が燐鉱石状なったグアノ(肥料用)の採掘にも着
手、止まるところのない多角経営がはかられたのである。彼が偉大な構想ヲめぐらせていたことは、住民の島内での
時給自足をめざしたことでも分る。彼はジャングルを伐り拓き、草地を開墾して、穀物、さつま芋、野菜類を栽培、そ
のうえ、牧畜、養蚕にまで手をのばした。


  日本領を認めた感謝状
 内海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた。明治42年(1909)の定住者は、実に
248名に達し、99戸を数えた。古賀氏は同年、尖閣列島開拓の功績で、政府から藍授褒章を受けたが、そのころ、
魚釣島のアホウ鳥の羽毛は、遠くヨーロッパまで輸出され、パリジエンヌたちの防止を飾っていた。同じころ、古賀氏
は、真珠王の御木本幸吉氏と組んで、石垣島で天然真珠を養殖、パリの万国博覧会に出品するなど、ユニークなエ
ピソードも数々残している。古賀氏はなかなかのハイカラさんであったとみえ、当時は珍しいタキシードを着こんだり、
自ら高級カメラを手にして、島の状景を撮りまくったり、大正7年、85歳で他界するまで、話題の人であった。

 古賀辰四郎氏の死後、事業は長男の善次氏に引き継がれた。しかしながら、尖閣列島の“黄金の日々”は、その
頃までだった。アホウ鳥は乱獲におって著しく減少し、航路の不便などから事業は次第に縮小されていった。善次氏
の事業経営の最盛期には、カツオ節製造の漁夫80人、海鳥の剥製職人8人が、魚釣島と南小島に居住していた
が、その後は、島を引き揚げる者も多く、列島周辺は日を追って閑散さを増した。
 尖閣列島の国有地借用期限が切れた昭和3年(1925)、政府は契約を年間136円の賃貸に切り替えたが、同7年
(1932)古賀氏は、列島のうち4島の払い下げを申請、政府から買い取った。因みに、当時の売買価格は魚釣島1、
825円、久場島247円、南小島47円、北小島31円50銭であった。

 話は少しさかのぼるが、大正年間に起きた興味深い、次のようなエピソードがある。大正8年(1919)の冬、魚釣り
島付近で中国福建省の漁民31人が、暴風にあって遭難した。古賀氏らはこれを助けだし、手厚い看護をつくして、全
員を石垣島に運び、元気になったところで中国に送り届けた。海の仲間として、当然の行為ではあったが、中国政府
は、長崎駐在の中華民国領事馮冕氏を通じて、古賀氏、石垣村長ら4人へ感謝状を贈っている。
 その文面には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島のこと)に漂着した際、救助、熱心な救護で
故国に生還できた」と中国語で書かれており、領事の公印が二つ押されていた。日付は大正9年5月20日となってい
るが、当時の外交官が、尖閣列島を日本領土として認めていたことを物語る貴重な記録といえよう。

  政府・県・学会も調査活動
 日本の領有が決定された直後から古賀父子二代によって開発された尖閣列島だが、その間、当局は、列島につい
て、ただ民間人の手にまかせっ放しだったわけではない。政府、県当局のほか、学者による同列島調査もひんぱん
に行われている。明治33年(1900)、八重山島司が、管内視察で列島を巡回、翌34年には沖縄県の土地整理事務
局が、最初の公式実施測量を行い、各島別の縮尺地図を作成した。さらに、同37年には、県の学務官、八重山島庁
書記、八重山警察署らが、相前後して出張、同40年にも、県の技師、警察らが列島に赴き、移住民の活動状況の把
握につとめている。

 一方、学者による学術調査では、沖縄師範学校の黒岩恒教諭や、本土からの宮崎幹之助学士らが命じ33年に渡
島、地質、生物などを調査した結果、群棲するアホウ鳥などの鳥糞が、肥料として有望な事を、古賀辰四郎氏に教示
するなど、グアノ採掘のきっかけをつくったが、この調査行で、一行は赤尾嶼に立ち寄り、英文と邦文で書いた上陸
記念標を建てた。また明治41年(1906)には、島尻水産学校の岩井教諭が、卒業生を連れて、缶詰製造の指導に
当たっている。

 大正年代では、日本水路部が大正(1915)に、海洋水路部が、同6年と9年に、それぞれ実地測量を行っている
が、昭和に入ってからは、昭和6年に沖縄営林署、同7年に農林省の資源調査団が、実施調査、地形の精密調査を
行った。さらに同7年から18年までの間、石垣島測候所の技師たちが、有人気象台開設の可能性をさぐるため三度
にわたって調査している。

 つまり、尖閣列島が日本領土となってからは、民間と政府、県当局が一体となって、同列島の開拓、調査に熱心に
取り組んでいた状況が、こうした記録からも、十分証明できるわけだ。魚釣島におけるカツオ漁業は、昭和15年(19
40)まで続けられたが、戦雲があやしくなったため、同年、全員が引き揚げ、同列島はまた、元の無人島にかえっ
た。

 米軍下で射爆場に
 太平洋戦争がなかったら、尖閣列島をめぐるこんにちの、複雑な領土問題も起こらなかったろう。米軍は、昭和20
年(1945)4月、沖縄本島に上陸、悲惨な戦いをくりひろげる。悲惨な出来事とはいえば、この年の7月3日、石垣島
を脱出して台湾に向かった疎開船第一千早丸、第五千丸(石垣住民180人乗船)が、米軍機に襲われて、尖閣列島
海峡で沈没、多数の犠牲者をだした事件がある。遭難者の一部は、魚釣島に漂着したが、救助されるまでに餓死す
るものも多く、痛ましい思い出となった。

 終戦翌年の昭和21年(1946)1月、GHQ(連合軍総司令部)は、北緯30度以南の南西諸島を日本から分離し、同
26年(1951)のサンフランシスコ平和条約代3条のもとに、尖閣列島も、瞑軍政下に置かれた。
この平和条約に先立って、米国は昭和25年(1950)軍政府令「群島組織法」を施行したが、その第章第一条の「八
重山群島」の範囲に、尖閣列島を含めていた。さらに、外務省がGHQに提出した「南西諸島一覧表」にも、尖閣列島
の一部として、明記されている。

米国が、米民政府およびその管政下にある琉球政府を通じて、尖閣列島に対する施設権を現実に行使したのが、同
列島の演習地指定であった。国有地の大正島は昭和21年4月から、民有地の久場島は同30年10月以前から、海
軍と空軍の射爆場として使用された。久場島の所有者古賀善次氏は、米民政府から、年額10、576ドル(昭和38
年現在)の軍用地使用料を受けたが、琉球政府は古賀氏所有の4島に対し、固定資産税を徴収しており、軍用地使
用料徴収に対しても、4,600ドル余の源泉徴収を行った。

      3  火をつけた海底油田の発見

 エカフェ調査で脚光浴びる
  日本地図にさえ、ケシ粒ほどにも印されなかった南海の孤島・尖閣列島が、突如として国際的に脚光をあびたの
は、昭和43年81968)10月にエカフェ石油資源調査の結果が発表されてからである。「東シナ海の大陸だなには、
莫大な海底油田が埋蔵されている可能性がある」という内容であった。エカフェ(国連アジア極東経済委員会=現在
の国連アジア太平洋経済委員会)が、日本、韓国、台湾などの海洋専門家を中心に、「アジア海域沿岸海底鉱物資
源共同調査会」を設立したのはその二年前だが、そのメンバーである東海大学の新野弘教授は、調査にかかる一
年前のエカフェ会議に「尖閣列島周辺に海底油田がある」と予測したレポートを発表、各国に注目をひいていた。

  一方、米国のウツズホール海岸研究所のエメリー教授らは、44年(1969)に、台湾中部の苗標油田沖の大陸だ
な で、石油の存在を確認、その地下層が尖閣列島方面に伸びているとの予測を発表した。我が国でも、総理府が
中心となって、44年の5月から7月まで、第一次尖閣列島周辺海底地質調査団(団長新野弘東海大学教授)を派
遣、引き続いて翌45年5月から6月にかけて、約一ヶ月の予定で第二次調査団(団長・星野通平東海大教授)ヲ派
遣して、石油、天然ガスの埋蔵状況を調査した。

 ところで、尖閣列島周辺の地下資源は、この時になってにわかに調査されたわけではない。エカフェ調査に先立つ
こと16年前の昭和27年(1952)には、琉球大学と琉球政府資源局が共同で資源調査を行っており、エカフェ調査
団が出発する3ヶ月前の、43年7月にも、琉球大、琉球政府、石垣市からなる総理府派遣合同調査団(高岡大輔団
長)が、すでに石油資源の予測調査を完了していたのである。

  台湾の水兵が魚釣島に上陸
「地球上で最後の改定大油田」「石油含有層の厚さが2,500メートルから5,000メートルもある世界第一級」――
石油資源の確保に、各国が血まなこになっている折だけに、このビッグ二ュ-スは当然、東シナ海沿岸各国に大きな
反響をもたらせた。中でも台湾政府(国府)は、いち早く反応をしめした。昭和45年(1968)7月17日、台湾が尖閣列
島周辺を含めた「北緯27度以南の台湾北東海域の石油採掘鉱区権を、米国のガルフ社に許可した」と言う寝耳に水
の発表を行ったのである。これを追うように、同8月7日には、採掘権を得たというガルフ社の子会社・パシフィック・オ
イル社が「許可された尖閣列島海域鉱区の地域調査を近く開始する」と声明、日本政府をあわてさせた。
この問題は、3日後の8月10日、参院沖縄特別委員会でとりあげられた。ここで愛知外相が「台湾が与えようとして
いる先覚列島周辺の石油鉱区権は、国際法上無効である」とする政府の見解を表明、ここに、同列島の領有権をめ
ぐる紛争の幕が切って落とされた。

 台湾立法院は、8月21日に大陸だな条約を批准、同25日に尖閣周辺の「海域石油資源採探条例」を採決したあ
と、同27日には、全国国民大会を開いて、尖閣列島の中国領有を主張する決議を行うなど、積極的な攻勢にでてき
た。同9月2日には、台湾水産試験所の会憲丸乗員が、魚釣り島に上陸、島内の岩に「特総統萬歳」の文字を、白
ペンキで大書し「青天白日旗」(台湾国旗)を立てる騒ぎが持ち上がった。この一行には、台湾の有力紙記者4人と、
国府水兵が加わっており、5日付の新聞に、第一面にカラー写真と探検記をでかでかと報道した事から、この事実が
判明した。

 驚いた日本政府は、在台北日本大使館に対し「これが事実なら、わが国に対する非友好的行為として、政府に抗
議せよ」と訓令する一方、在日米大使館にも「硫球諸島の施政権者として、領域保全のため直ちに、適切な措置をと
るよう」申し入れた。この結果、日米両政府と、琉球政府との話し合いのうえ、同9月15日、魚釣島の青天白日旗を
撤去し、一応この事件は落着したのであった。


五つの島に「領域表示板」
 尖閣列島に不法上陸した台湾人は、これより以前にもあった。昭和43年(1968)8月、琉球政府法務局の出入管
理庁係官が、巡視艇で同列島を巡検したところ、四五名の台湾労務者が、南小島に上陸しているのを発見した。彼
等は同島沖で座礁した船舶の解体作業wp行っていたが、係官が「此処は日本領土であり、許可もなく作業している
のあh法律違反である」旨を説明、退去を求めると、抵抗することもなく、さっさと引き揚げた。この労務者たちは、いっ
たん退去したが、その後、琉球列島高等弁務官の許可を受け、二回にわたって同島に上陸、作業を行っている。
  こうした不法入域者を取り締まる必要を認めた米民政府は、軍用機による同列島海域の哨戒を始め、琉球政府も
巡視船による定期パトロールを実施することになった。また、不法入域の大半は、同列島の法的地位を知らない台湾
漁民たちが、うっかり法を犯す場合が多いため、これを防ぐための「領域表示板」の設置が、米民政府の方から提案
された。
  この表示板のせっちとは別に、石垣市でも、独自の地籍表示表を、各島に建てた。これは、尖閣列島が「沖縄県石
垣市登野城」に続スルことを明記したもので、44年(1969)5月、魚釣島、北子島、南小島、久場島、大正島の五つ
の島に表示された。前期の米民政府提案による「領域表示板」は、よく45年(1970)7月に、琉球政府出入管理庁
の手で、建てられた。コンクリート製の表示板には、日本語、中国語、英語の三ヶ国語で「この島を含む琉球列島の
いかなる島または領海に、琉球列島住民以外の者が入域すると告訴される」という警告文が書かれ、魚釣島と久場
島には各2本、北子島、南小島、大正島に1本ずつ計7本を建てた。


       4  日、台、中三つどもえの論争
 中国が領有権主張
 魚釣島の青天白日旗事件以後、日台官で尖閣列島領有権論争が激化する一方で、大陸だな問題では両国間の
話し合いが進行していた。昭和45年(1970)9月、台湾政府は、東シナ海の海底資源にからむ大陸問題で、日本側
と交渉することに同意し、よく10月には板垣駐台大使と沈外交部次長との間で、交渉が開始された。この日台間の
話し愛に、さらに韓国も加わり、11月には、三カ国の大陸だな石油資源共同開発にかんする「連絡委員会」が、韓国
のソウルで発足するに至った。連絡委は、数回の会合をもったあと、原則的な合意が成立したため、三カ国の経済人
を中心にした「海洋開発研究連合委員会」が設置され、民間ベースで大陸だなの開発を推進することになった。
 ところが、この動きに思わぬ障害がふりかかってきた。これまで、尖閣問題に関して、ひたすら沈黙を守っていた中
国(中共)が、突如として、尖閣列島の中国領有権を主張し出したのである。まず、中国の通信社・新華社が、45年
(1970)12月4日、尖閣海域の三カ国による共同開発構想を激しく非難してきた。その論調は「協力開発というの
は、日本軍国主義という大海賊が、掠奪を行うための手口に過ぎない。中国、朝鮮(北鮮)両国に属する島嶼の領有
権および、海底資源の所有権をタナ上げしたり、凍結したりして、中朝人民にその主権を放棄させ、日本軍国主義が
まず先に収奪し、そのあとで不法占拠するに任せることにほからない」というものであった。続いて「人民日報」も、
「米日反動派が我が国の海底資源を掠奪するのを許さない」と論評した。
 この中国側の強行発言は、わが国をはじめ、韓国、台湾、米国に少なからぬ衝撃を与えた。特に注目されたのは、
世界各国に居住する中国人が、これによって活発な行動を起こしたことである。46年(1971)4月1日、ワシントンの
華商・中国人学生2,500人が、「釣魚台は中国領土であり、米日反動派による侵略に抗議する」と集会やデモを行
い、同10月には、ワシントンとロスアンゼルスで、中国系米人が抗議デモを行った。さらに、香港の学生連合、中国
青年らも7月から8月にかけて500人から1,000人の反対デモを行い、香港大学では、日本の旧軍艦旗を引き裂
いて気勢をあげた。在外中国人が北京系・台湾系を問わず、これ程一致した行動をとったことは、極めて珍しいケー
スとされた。

  沖縄返還と米国の立場
 昭和46年(1971)6月17日、日米両国は、沖縄返還協定に調印、47年5月15日付で、尖閣列島を含む南西諸
島の施設権返還が実現された。これに対し、中国外交部は、同年12月30日に抗議声明を発表した。それは「釣魚島
(尖閣列島)を、変換区域の中に編入しようとしているが、これは中国の領土保全と国家主権に対する重大な侵害で
あり、断じて黙認できない」という内容であったが、中国政府が、公式に尖閣領有を主張したのは、これが始めてで
ある。
 さらに、47年(1972)3月3日、中国の安国連代表が、国連の海底平和利用委員で、「尖閣諸島は中国領土であ
るのに、日米両国は“沖縄返還”という詐欺行為で、日本領土に編入しようとしている」と激しく非難した。日本の小
木曾国連大使は、直ちに「同諸島は、日本の正当な領土であり、また沖縄返還を詐欺行為というなら、日本国民の
憤激を招くことになろう」と、これまた激越な口調で反論を加え、尖閣列島の領有権問題は、ついに国連を舞台にした
論戦にまで発展した。
 一方、国内では、福田外相が3月21日に、「尖閣列島が我が国固有の領土であることを、沖縄返還の際、米側に
宣伝してもらうため折衝している」ことを明かし、米国の対応が注目されていたが、米国務省スポークスマンは「沖縄
返還に伴い、尖閣列島の施政権は、日本へ返還するが、主権の帰属については、中立の立場をとる」と日本にとっ
て、衝撃的な見解を発表した。これは、沖縄返還は領土の主権紛争の処理をするものでなく、主権争いは、当時国
間で解決すべきものだ、との考えに基づいたもので、その裏には、中国と日本との紛争に巻き込まれたくないとの米
側の姿勢がありありと見えていた。福田外相は、国会答弁の中で「米国の態度は逃げ越しであり、米国が中立の立
場で正式に発表するなら、政府は厳重に抗議する」と強く非難、佐藤首相も「米国は中国を気にする一方で、台湾に
も気をつかっている」と不満を述べた。この米国政府の態度が、ニクソン訪中による米中接近策のかけひきなのか、
台湾筋に食い込んだメジャー(国際石油資本)の圧力によるものであったかは、不明である。

  日中共同声明後は“タナ上げ”
 この間、47年(1972)2月に、「台湾政府は、釣り魚台列島を宣蘭県に編入、現地に管理事務所を設置するため
準備中」という台湾紙(中央日報)の報道で「スワ、第二の竹島か」と日本政府をあわてさせたが、それだけのこと
で、問題は起こらなかった。ただ、奇妙なことに、台湾側の領有権主張に対しては、反発を増していた日本国内の一
部勢力が、中国側が領有権を主張しだしてから、ピタッと沈黙し、中には、逆に、中国領有説に組して、日本政府を
批判するグループまで現れた。47年4月、海外の中国人グループの反日デモに呼応するかのように、石田郁夫氏
(ルポライター)らを中心とする集団が記者会見を行い「尖閣列島は、日清戦争で日本が強奪したもので、歴史的に
中国固有の領土だ。われわれは日本帝国主義の侵略を是認できない」と声明した。この意見には、荒畑寒村、小田
切英雄、羽仁五郎、井上清氏らのいわゆる“進歩的文化人”95人が賛同したといわれる。特派員を北京に送り込ん
でいた日本の大新聞をはじめ、マスコミ界が、一様に中国礼賛ムードをうたいあげたのも、この頃であった。
 キッシンジャーの頭越し外交で、米注接近がはかられたあとをうけ、47年(1972)9月28日、日本の田中首相、
大平外相が北京を訪れて「日中共同声明」に調印した。これで日中国交が正常化されたが、この間の日中交渉で
は、尖閣列島問題に関する話し合いは一切されなかった。これは、田中首相と周恩来首相との間で、「尖閣には触
れない」とする黙契があったからだ、とされている。この方針は、その後も続行され、49年(1974)10月に、日中友
好協会の訪中団に会ったケ小平首相が、「尖閣列島領有問題はタナ上げした方がよい」と発言したり、同じ月に、日
本の地方議員訪中団に会った華国鋒中央政治局員(現主席)は「領有問題は、平和条約締結後に、ゆっくり話し合
おう」と述べるなど、“尖閣問題よりも日中条約が先決”とする中国の姿勢が確認された。こうした背景のなかで、尖
閣列島をめぐる日中間の紛争は小康状態に入り、53年(1978)4月の、中国漁船による侵犯事件まで、大きな動
きはなかった。


第3章日中の主張と論争点
     
1  日本の立場と主張

 日本政府の基本姿勢
 すでに述べてきたように、日本は、国際法にいう“無主の土地”であった尖閣列島を、明治二十八年(一八九五)に
「先占」の法理によって領有し、それ以来、実効的に支配してきている。同列島が、日本固有の領土であることは、い
ささかの疑念もないが、現実に中国、台湾が自国の領有権を主張している以上、これに反論し、わが国の立場を鮮
明にしておく必要がある。政府としては、「中国、台湾の主張は、全く根拠のないもので、わが国はこれについてはな
し合う筋合いはない」との態度だが、同列島の領有権に関し、認識の誤りが見出されたときは、外交チャネルを通じ
て、注意を喚起していく方針でいる。
 尖閣列島の領有権に対する日本政府の正式見解は、昭和四十七年(一九七二)三月八日、外務省から発表され
ている。これを要約すると次のとおりである。
(1)尖閣列島は、明治十七年以降、政府が沖縄県当局を通ずるなどの方法で、再三、現地調査を行い、無人島で、
清国の支配が及んでいないことを慎重に確認のうえ、明治二十八年十月十四日に、現地に標杭を建てる閣議決定を
行い、正式にわが国の領土に編入した。
(2)爾来、歴史的に一貫して南西諸島の一部を構成しており、明治二十八五月効の下関条約で、わが国が清国よ
り受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
(3)従って、サンフランシスコ平和条約第二条で、わが国が放棄した領土には含まれず、同第三条に基づき、南西
諸島の一部として米国の施政下に置かれたが、昭和四十七年六月の沖縄返還協定により、わが国に返還された。
(4)中国が尖閣列島を台湾の一部と考えていなかったことは、米国の施政下に置かれた地域に、同列島が含まれ
ている事実に、何ら意義を唱えなかったことからも、明らかである。
(5)台湾の国防研究院と地学研究所が出版した『世界地図集』(一九六五)と台湾の『国民中学地理教科書』(一九
七〇)で、尖閣列島は明らかに、わが国の領土とされている。また北京の地図出版社の『世界地図集』(一九五八)
でも、日本領土として取り扱われている。
 この統一見解は、衆院沖縄・北方問題特別委員会における国場幸晶議員(自民)の質問に答える形で発表され
た。

  自民党の“尖閣論争”
 自民党の総務会は元来“秘密会”にはずだが、翌日の各紙には、そのやりよりが委細もらさず載ってしもう。とくに、
日中問題では、いわゆるタカ派、ハト派の論争ぶりが紹介される習わし?である。中国漁船の尖閣侵犯事件では、
当然ながら、日中条約慎重派の強硬な発言が目立った。事件発生後二日後、四月十四日の総務会では、「今回の
事件でも台湾から情報があった。この背景には中国側が日中条約交渉への見通しを謝った中国内部の事情とソ連
の日中条約へのけん制を恐れたことがあげられている。政府、党が一体で取り組め」(玉置和郎議員)、「灯台や避
難港をつくるなど実効的支配を急げ」(天野光晴議員)「中国が漁船の退去を拒否したらどうするか、実力を持たず
に、どうやって領土、領海を守るか」(町村金五議員)など、政府、党首脳を追及する意見が続出した。
 これらの意見は、主として清風会メンバーなどの対中慎重派に多かったが、“A研”として知られているアジア問題
研究会(灘尾弘吉会長)は、「武装漁船団が領海に侵入して領土権を主張するのは、わが国の主権を侵す『覇権行
為』である」とする決議を、福田首相、党三役に申し入れした。この侵犯事件は、これら党内の慎重派を刺激したばか
りでなく、日中条約促進派の人たちまで、慎重論に追いやった観があった。
 国会、党内論議を通じての、自民党の意見を集約すると、尖閣列島を実効的に支配する具体的対策をとるべきだ、
として「灯台、あるいは避難港などの設備を急ぐこと」で一致、総務会で合意されている。またこの事件がきっかけ
で、党内に「領土・領海に関する特別委員会」(玉置和郎委員長)が設立され、わが国周辺の海域にある無人島、岩
礁の調査を行い、将来紛争が予想されそうな島嶼は、命名のうえ領有宣言などの対策を講じることにしている。

  野党見解とその姿勢
 野党の場合はどうか。微妙な違いはあるが、各党とも「尖閣列島が、歴史的にも国際法上も、わが国固有の領土
である」という見解を表明しており、基本的姿勢では一致してい。中国漁船の領海侵犯が起こった直後(四月十四日)
に、各党が発表した党見解から、日中条約との関連で、その姿勢を見てみよう。
 (1)まず、“日中友好”を党是とする社会党は、 「この事件によって、日中条約の締結が遅れるようなことがあって
はなたない」として、侵犯事件と日中条約の切り離しを主張、 さらに
「中国側が領土権を主張するならば、条約締結後、将来の問題として、外交レベルで交渉すべきだ」(田辺国対委員
長)との立場である。 (2)同じ“親中国”の公明党も、「侵犯事件日中条約は分離して処理すべきである」との考え
で、「同問題(侵犯)は、条約交渉の過程の中で、よりよい結論を見出すべきだ」(中執委)との態度を決めた。 (3)
民社党は、「領土問題を避けて通ろうとした事に問題があった。条約交渉の中で、どしどしぶっけて、本格的な解決を
はかるべきだ」(佐々木委員長)と、真正面から領土問題と取り組むべきだと主張した。(4)新自由クラブは、「同事
件によって(2)日中条約を遅らせるべきではない」(西岡幹事長)として、公明党と同様に、事件の問題化を懸念する
態度を見せた。
(6)会民主連合は、事件のさなかに訪中代表団が、中国側の説明を最初に受けたこともあってか「中国が偶発的だ
といっている以上、詮索すべきでない」(田代表)と、全く中国サイドに立った態度であった。 (6)“反中国”の共産党
としては、「日本の主権を侵害し、領土保全を脅かす覇権的行為だ」と さながら自民党のタカ派並みの強硬な態度
をとり、日中条約にも「侵犯行為をそのままにして、(交渉を)再開すべきでない」(松本国対委員長)と厳しい姿勢を
示した。
 このようにみてくると、日中条約慎重派が民社と共産の二党、社会、公明、新自由ク、社民連の五党が促進派とい
う色別けができる。つまるところ、自民党内にある二つの意見と同じである。


       2  中国側の主張と姿勢

  中国外交部の領有権主張
 中国と台湾が、尖閣列島の領有権の主張しだしたのは、昭和四十五年(一九七〇)に入ってからである。同列島
が正式に日本領土に編入された明治二十八年(一八九五)から起算して、実に七五年ぶりに意義を唱えることにな
る。つまり、中国と台湾は、エカフェの同列島海峡での石油資源発見までは、同列島を、あきらかに日本領土として
認めており、他国も含めて、異議を持ち込まれたことは一切なかった。中国外交部が、尖閣列島について、初めて公
式声明を出したのは、昭和四十六年(一九七一)十二月三十日だったが、その要旨は次のようなものであった。
(1)釣魚島(魚釣島)などの島嶼は、明代に中国の海上防衛区域の中に含まれており、中国の台湾付属島嶼であっ
た。中国と琉球との境界線は、赤尾嶼(大正島)と久米島との間にある。 (2)日本政府は、甲午(日清)戦争を通じ
て、これらの島嶼をかしめとり、さらに、清朝政府に圧力をかけ、一八九五年四月、台湾とそのすべての付属島嶼お
よび澎湖列島の割譲という不平等条約「馬関条約」(下関条約)に調印させた。 (3)第2次大戦後、日本政府は、
不法にも、台湾の付属島嶼である釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府は、これらの島嶼に対して、いわ
ゆる「施政権」をもっていると、一方的に宣言した。これはもともと不法なものである。
  この声明は、同じ年の六月十七日に、日米両国が調印した沖縄返還協定への抗議に争点が置かれたもので、こ
の協定を「米日両国がグルになってデッチあげたペテンだ」 と、激しく攻撃した。この中国の主張が、歴史的な事実
をわい曲したものであることは、これまで述べてきたなかでも指摘された通りである。
 
  中国側の領有論拠
 尖閣列島の中国領有論は、中国、台湾両政府の声明のほかに、中国の人民日報、台湾の中央日報などの論説、
あるいは台湾の歴史学者らを中心にした論文などが数多く発表されている。その中で、特に異色なのは、日本人の
立場で、強硬に中国領有説を唱える井上清京大教授の存在である。同教授は、尖閣列島が中国の古文書に記録さ
れていることを理由に、中国領土だと断言している。これらの主張の論拠とするところは、およそ次のように分類でき
る。
 (1)歴代冊封録などの古文書には、琉球領の久米島と赤尾嶼(大正島)の間が、中国と琉球の「界」である、と書
かれている(陳促の『使硫球録』あるいは郭汝の『重編使琉球録』。
 (2)古代地図には、中国本土と同じ色に、色別されている(林子平の『三国通覧図説』)
 (3)古代文書に台湾の付属嶼として記されている(鄭舜功の『日本一鑑』。
 (4)清朝の西太后が、釣魚台(魚釣島)を盛宣懐に下賜した記録がある。
 以上の論拠を通じていえることは、このほとんどが、領土領有の基盤である国際法的な見地からのものでなく、歴
史的な観点からだけ主張であるということだった。つまり、このことは、この論拠が国際法上からは、あまり重要でな
い薄弱な論拠である、ということがいえる。それはさて置き、この四ッの論拠については、奥原敏雄国士舘大学教授
(国際法)をはじめ、わが国の歴史・法学者らが、彼我の資料を刻明に分析したうえで、ことごとく論破し、その誤りを
指摘している。

  崩れ去った論拠
 つぎに、前項であげたこれら中国領有説の論拠に対する反論を要約してみよう。
(1)は、『使硫球録』(一五三四)と『重編使琉球録』(一五六一)に、「古米山(久米島)からは琉球に属する」あるい
は「赤嶼(大正島)が琉球との境界」と解される文言があることから、「従ってそれまでの島は中国領である」との判
断である。が、しかし、この論拠を証拠だてるには当然、それまでの航路上にある台湾ならびに花瓶嶼、彭佳嶼など
の諸島がすべて中国領であることを前提としなければならない。ところが、清朝の古文書では、台湾が中国領になっ
たのは、この二つの古文書が約百二十年ないし百五十年後の一六八三年になってからである。さらに花瓶、彭佳な
どの諸島が台湾行政編入されたのは、それから約ニ百二十年後の、日清戦争以後である。
 このことから、尖閣列島が当時中国領であったという論拠は成り立たなくなる。  (2)は、林子平の『三国通覧図
説』(一七八五)の中の二つの地図に、魚釣り台と中国大陸の“色”が、同色の「赤」で描かれており、従って中国領
である、との説である。しかし、この「図説」の色別は、領土を表すものではなかった。もしこれが領土を示すとしたら、
当時はすでに中国領んあっていた台湾は、朝鮮領‘黄色)となり、旧満州(緑色)は日本領でなければならなくなる。
(2)は、郭舜功の『日本一鑑』(一五五六)に、「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也」とあるところから、台湾の付属島嶼
だ、とするものだが、この著者は、かつて密偵だったのが、後年失脚するなど人物に信頼性がなく、この文書も当時
の明朝の公文書でないため、記l述には信ぴょう性があまりない。 (4)は、清朝の西太后(慈禧太后)が釣り魚台な
どを、盛宣懐(子孫の盛毓度氏は現在東京で中華料理店を経営)に」下賜した、と称する文書があり、同島に対する
統治行為、すなわち実効的支配の証拠だとする論があるが、その文書そのものについての裏付けもなく、信ぴょう性
にとぼしい。
  以上の反論は、主として奥原敏雄国士舘大学教授の論文によった(「明代および清代における尖閣列島の法的
地位」沖縄第六三号、ならびに「尖閣列島領有権の根拠」中央公論53・7月号)。

  硬軟使い分ける国境政策
 広大な大陸国家である中国は、陸上ではソ連、モンゴル、北朝鮮、インド、ベトナムなど一一カ国と国境を接し、海
域ではベトナム、フィリピン、マレーシアなど七カ国に相対している。それだけに、国境をめぐっての争いごとも絶えな
い。尖閣領海侵犯事件の最中にも、ベトナム北部国境で戦車が出動する武力衝突があったほどであった。
 現在係争中ものでは、中国北部ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)における中ソ国境紛争が最大問題といえ
る。昭和四十四年(一九六九)三月に、両国の正規軍が武力衝突、多数の死傷者を出したが、現在では、ソ連は一
○○万、中国は一五○万の兵力を同国境線に配備、武力を増強している。四十四年の衝突事件直後から、紛争解
決のための外交次官交渉がもたれているが、双方の主張は平行線をたどり、両者の緊張は一向に解けそうもない。
 昭和三十七年(一九六ニ)に、インドの東北国境で武力衝突があった中部国境ラインも、まだ未解決のまま残され
ている。また、「ベトナムとは、南シナ海にある西沙・南沙諸島の領有権をめぐって、四年前の四十九年(一九七四)
に軍事衝突が起こったが、ベトナム解放後も紛争が続いている。この領土問題では、南沙諸島の領有を主張する。フ
ィリピンもからみ、三国間の対立となったが、中国は一九七五年、同問題をタナ上げしたまま、フィリピンと、国交を樹
立している。
 この西沙・南沙諸島の領土紛争は、尖閣列島の場合と同様に、南シナ海の海底資源問題がからんでいる。ベトナ
ムとは、最近になって内陸国境でのトラブルも加わったほか、華僑問題をめぐる対立も緊迫の度合いを強めている。
中国とベトナムとの対立は、ベトナムがソ連寄りの姿勢を強め出したことと大きな関連をもっている。
 中国の国境政策を見ると、非友好国とは武力衝突も辞さない強硬姿勢であるが、北朝鮮、英領植民地の香港、ラ
オスなどの友好国あるいは友好関係をめざしている国とは、たとえ領土紛争が起こる可能性があっても、できるだけ
問題化を避ける態度をとっている。このとらえ方でみるならば、尖閣侵犯事件は、日中友好を目標にしている中国政
府が、計画的にやったとは、、考えにくい。



  第4章尖閣列島の今後の課題

       1   周辺海底の石油資源

 諸説まちまちの石油埋蔵量
 ほんとうに“石油の宝庫”なんだろうかーー尖閣列島の領有権問題が盛んに論議される一方で、こんな疑問がつい
て回る。うまくいけば「世界の石油大国」という夢に「有望といわれた地域から石油が出たためしがない」など、水をぶ
っかけるような専門家もいたりして、東シナ海底に眠る石油埋蔵量は、諸説が入り乱れている。まず、最初の火付け
役となったエカフェ調査団は、「東シナ海大陸だなは、その地質構造からみて、世界最大級の油田の一つになる可
能性が大きい。なかでも、尖閣列島周辺の大陸だなが、最も有望」と報告している(四十四年=一九六九)。
 その理由はこだろうという。世界最大の中東油田帯は、チグリス、ユーフラテスと言う大河から流れてきた膨大なプ
ランクトンの有機物堆積層が、石油となったものだ。この考え方に立てば、黄河・揚子江という大河の河口地域に石
油層があるのも当然、というわけである。実際に調査してみると、二、五○○メートルから五、○○○メートルの厚み
をもつ含油槽が広がっていた。これはエカフェ報告以後、わが国の政府派遣調査団をはじめ、日本石油開発、西日
本石油開発、あるいは米国のガルフ社などの石油事業会社による各種調査によっても裏付けされている。一方、中
国では、華国鋒主席認可のもとに、数百人の海洋科学者〜なる大調査団を編成、沖縄近海まで含めた約三○万平
方キロの海域を、一ヶ月間にわたって調査したと伝えられた(43・(1)・22「人民日報」)。
 ところが、肝心な石油埋蔵量は、となると、これがまちまちではっきりしない。日本政府(通産省、資源エネルギー
庁)は、五億八、○○○万トン、アメリカは一七億トン、日本の開発業者は五○億トン、中国はなんと一五○億トンと
いう推定量である。ちなみにわが国の石油消費量は、五十三年度見込みで約二億四、○○○万トンとされる。要す
るに、石油はあるにはあるが、どれだけあるかは、やっぱり掘ってみなければ・・・・というのが実態であろう。

 日・中・米の共同開発へ
 石油開発は、千に三っも当たればよいといういわゆる“センミツ”の大バクチだといわれる。とにかく掘り当てるまで
は、陸上でも大変な苦労があることは、アメリカのテキサス油田あたりの話でも想像がつく。ましてやニ○○メートル
もある海の底に、さらに穴をあける大仕事である。よほどの高度技術と豊富な資金力がなければ、成功はおぼつか
ない。
 日韓大陸だな協定による共同開発は、いよいよ五十年度内には、試掘作業に着手される見通しにあるが、その後
八年間に、最低一一本の試掘が行われる予定とされる。この一本の試掘井には、通常の場合でもニ○億円からニ
五億円が必要だというから、大陸だなで本格的な採掘作業が開始されれば、果たしてどれだけの投資になるか見当
もつきかねる。日韓共同開発区域全体の採掘では、およそ一兆円を越すだろうともいわれている。
 尖閣列島区域の開発が、領土問題を解決してからとなると、まだまだ先の話になるが、日韓大陸だなどころでない
豊富な埋蔵量が推測されているだけに、裏側では、各国とも活発な動きを展開しているようである。沖縄復帰の直前
には、フランス、西ドイツ野開発会社まで、同海域に乗りこみ、海底調査をやっていたともいわれ、なかには、そのデ
ータを一億円で、わが国の石油会社に売り込みにきた会社もあったそうである。問題の中国は、東シナ海、南シナ
海、渤海湾の海底調査を精力的に推進する一方で、海底資源開発に関するミッションを、五十一年(一九七六)から
三回も、米国へ送り、開発技術の向上に全力をあげている。最近中国にニヶ年間滞在していた米国技術者は、「中
国はすでに、油田探査と試掘に必要な諸設備の七○%以上を自力生産する能力をもっている」と言明しており、西側
からの輸出のねらいとしては、海底油田用設備しかないと述べている。ある推定では、中国の石油探査技術者は、
約九千人にも達するといい、日本の約三百人とは比較にならない。
 しかし、尖閣境界周域の場合、陸地からははるかに遠く、大陸だなの水深も一五○メートルからニ○○メートルと、
相当深いため、海底収集システム、出荷施設の建設には、高度の技術だけでなく、巨額の経費、膨大な資材が必
要とされる。本格的な開発となると、中国単独では到底不可能であろう。いずれは、日、米を含めた国際共同開発方
式がとられることになろう。

 ひしめく鉱区権申請
 大陸だなについては、日本は等距離中間論、中国は自然延長論をとっている。
国連海洋法会議では、自然延長論が大勢をしめつつあるといわれ、境界確定についても、中間線を基準とする考え
方以上に、「公平の原則に従って、合意によって行う」との方向が打ち出されている。日中条約のあと、尖閣の領有
権問題とからまって、日中大陸だな開発への動きも強まってくるだろうが、中国と同じ大陸だな自然延長論をとった
韓国との場合に比べ、その折衝はさらに、困難が予測される。
 わが国としては、あくまで係争中の地域には、石油の試掘、鉱区の認可をしないことを建前にしている。しかし、尖
閣列島区域一帯への鉱区申請は、すでにひしめいている。台湾が「尖閣海域の探査権をガルフシ社に与えた」と発
表(四十五七月)したあと、琉球政府には、尖閣周辺の鉱区権申請が相次いだ。当時は、沖縄復帰前という事情も
あり、申請者は沖縄の申請人を立てて申請が行われた。四十五年(一九七○)の鉱区権申請者と件数は、大見謝
恒寿氏五万五、○ニ七件、古堅総光氏七、六一一件、新里景一氏一万一、七○三件となっているが、その後、申請
者は、本土企業にバトンタッチされている。
 現在は、帝国石油、石油資源開発、うるま資源価発、芙蓉石油開発の四社が、日韓共同開発区域の南境界線か
ら台湾との境界へかけて鉱区を申請中である。この鉱区には、台湾側も、日本の区域とダブらせて鉱区を設定、米
国のガルフ社と契約を結んでいるが、現在、米国政府の指示で、紛争解決までは試掘もストップされたままである。
こうした複雑な問題を処理し、解決しなければ、尖閣の海底に眠る“石油の宝庫”は開かれないのである。

      2 警備の強化と安全操業

 漁業の安全と避難施設
 黒潮のまっただ中にある尖閣列島海域は、昔から、好漁場として名高い。沖縄の石垣、宮古、与那国の各島をは
じめ、本土九州沿岸からも多数の漁船が繰り出すが、台湾漁船もよく近海で操業している。水産庁の調べでは、尖
閣海域での水揚げ高は,年間約八万トン、そのうち沖縄県の漁獲量は一、六○○トンしかない。沖縄県の調査による
と、五十二年には、同海域へ沖縄から一六八隻が出漁、一五億一、○○○万円の水揚げがあった。漁業の主体
は、カツオ、マグロ、ハマチ類で、さんご採取はこの海域の特産品となっている。
 中国漁船が侵犯してきた当時、数隻の宮古漁船が魚釣り島付近で操業していたが、武装した大船団が、直前を通
り過ぎたり、遠巻きにしたりしたため、操業を中止して逃げ帰った。事件直後、「侵犯は漁民の死活問題だ、先祖伝来
の漁場を確保しよう」と、 県下三三漁協の漁民が、那覇で大会を開くなど、県下の漁業界は騒然とした。地元漁民
は、漁場の安全をはかるため、同海域の外国船に対する監視体制の強化、緊急避難施設、灯台の早急な設置を政
府に要望しているが、農林水産省(水産庁)、運輸省(海上保安庁)の政府事務レベルでは、領有権の実効的支配
を示す意味からは、恒久的な施設の必要性を認めてはいるものの、同列島の海洋条件がきわめて悪い事を理由に、
避難港の築港には難色を示している。

  売られた魚釣島と“決死隊”
中国の大漁船団が、尖閣列島をとり囲んでいたそのさなか、渦中の魚釣島(三・六平方キロ)が、なんと二、五○○
万円ナリで売られていた。売り主は、沖縄在住の島の所有者・古賀花子さん(八一)、飼い主は、埼玉県在住の青年
実業家・栗原国起氏(三六)であった。魚釣り島、久場島、南小島、北小島の四島が、昭和七年(一九三二)に、列
島の開拓者、古賀辰四郎氏の息子である善次氏に国から有料で払い下げられたことは、列島の歴史の項で述べた
通りである。善次氏は五十三年三月に病没、島は花子さんに遺された。
 ただし、四島のうち、南小島(○・三平方キロ)と北小島(○・二平方キロ)は、五年ほど前に、栗原氏に譲渡されて
いる。栗原氏の父親と善次氏が古い付き合いで、魚釣島譲渡の話も以前からの約束だったという。この時期に手離
した理由を、古賀さんは「騒ぎで譲ってくれという話が増え、断るのに苦労するから」と語り、栗原氏は「古賀さんに子
供がないから引き取ったまで、あまり騒がないでほしい」と多くを語らない(53・5・12朝日新聞)。この魚釣島の値
段がいくらか、興味あるところだが、二、五○○万円万円が有力のようである。昭和七年に払い下げられた時は一、
八二五円であった。米軍の射撃場になっている久場島は、軍用地料がいるため、古賀さんは目下のところ売る意思
はないという。三つの島を手中におさめた栗原氏が、今後どのような計画で島を活用するのか、知る由もないが、青
年実業家なりの考えもあるようだ。
 ところで、この魚釣り島に、五十三年五月十二日「尖閣諸島領有決死隊」と称する民族派の青年たち数人が上陸、
食糧を持ちこんでテント生活を続けた。「政府が実効的支配を何らかの形でやるまで頑張る」決意であったが、第二
次隊まで通算二○日ほどの“実効的支配”を決行したところでついにダウンした。退去したのは“栄養失調”のためだ
ったという。

  領海警備体制の強化
 「北の守りを固めたスキに、南をやられた」―――尖閣領海侵犯さる、の緊急報に、ガックリ肩を落としたのは、海
上保安庁の幹部たちであった。巡視船三一○隻、航空機三四機というのが海上保安庁の現有勢力(五十一年末)
だが、尖閣列島海域を含む南方海上の警備に当たる第一一管区海上保安本部(那覇)には、このうちのわづか“八
船艇と航空機四機”しか配備さえていなかった。しかも二、○○○トン型新鋭巡視船二隻、一、○○○トン型七席、四
五○トン型一九隻あるなかで、ここに配備されていたのは、三五○トン型二隻と一三○トン型一隻、あとは港湾用程
度の小型巡視船五隻あるだけ、航空機はピーチクラフト二機に、ベル型とヒューズ型のヘリが各一機という、まことに
お寒い布陣であった。
 実をいえば、ちゅうごく、台湾が尖閣列島の領有権を盛んに主張していた頃は、同か言い域は北方海域以上の「最
重点海域」として、二、○○○トン型巡視船を派遣する予定もあった。しかし、五十二年七月、わが国の領海が一二カ
イリに拡大され、二○○カイリの漁業専管水域が施行されると、あわただしい動きを示すソ連漁船に対応するため、」
大型巡視船はすべて、三陸沖と北方海域の守りへ配転されたのである。尖閣海域での領海侵犯は、あるにはあっ
たが、そのほとんどが三○トン未満の台湾漁船だったことも、手薄になった理由でもあった。
 この事件後、海上保安庁では、一一管区配備用として、政府に船艇と航空機の緊急増強を要望している。再び他
国につけいるスキを与えないためにも、YS11機の配備、巡視船の大型・快速化、与那国島への基地設置など、政
府の本腰を入れた対策が望まれるところである。

真の “実効的支配”を
 「北方四島」「竹島」の領有権問題と、尖閣列島の場合とでは、同じ領土問題とはいいながら、まるでケースが違
う。北方四島は、戦後三三年間、ソ連軍に不法占拠されたままであり、未だに戦後処理問題として、遺されている。
一方の高島は、日韓正常化当時から、はっきり両国間の紛争問題として、将来に解決の道を残している。これに対
し、尖閣列島は明治の領土編入以来、国際間で公式な議題にのぼったことはない。四十七年(一九七二)の日中国
交正常化、五十三年(一九七八)の日中平和友好条約でも正式には問題とされなかった。つまり、「尖閣列島に関し
ての領土問題はない」というのがわが国の立場である。
 中国は、日中友好平和条約締結に当たり「再び領海侵犯は起こさない」と言明したが、これが、尖閣列島にたいす
る日本の実効的支配を認めたものかどうかについては、釈然としない。日中条約で示された中国の譲歩が評価され
ているが、日本側としても「覇権反対の本文明記」という重大譲歩を与えている。日本人の領土意識に警鐘を鳴らす
中野美代子北大助教授は、「この(日中)条約の最大の目玉であるいわゆる「反覇権」条項は、中国の反ソ統一戦線
へのもくろみ、不可欠なものであるが、中国はさような大事の前に、尖閣列島といういわば小事には目をつぶるポー
ズを見せたのである。そして日本は、どうやら中国のポーズにころりと参りかかっているらしい」(「中央公論」53年7
月号)と中国の真意を解明している。
 自民党のある首脳は、尖閣侵犯事件の折「列島にたいする実効的支配を確立するため、早急に人を住まわせるべ
きだ。政府でできない場合は、自民党として人員を送り込むことを検討したい」と語った。ことはちっぼけな島だけの
事柄でなく、国家の威信にかかわる問題である。それこそポーズでない “有言実効”をこそ望みたい。



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